2013/12/10

Dialogues des Carmélites / カルメル会修道女達の対話 @TCE


"Qui mesure ne donne pas" / "J'aime la nuit autant que le jour"

ピオがキャンセルとは
ジェネラルで演技はしたもののまったく歌わなかった(コーラスの女性が代わりに歌ったらしい)のは本当に調子が悪かったのだ。
しかし代役に立ったのはA-C Gilletとは確かにRemplaçante de luxe。彼女は前日の午後パリに来てすぐ音楽面の準備を、当日演技の準備をして「ほぼ完璧に」仕上がっています、と開幕前に支配人からアナウンスがあり、「ほぼ」のところで客席に暖かい笑いが広がる。
(名前のアナウンスがあったときにはすぐに気づかず「誰だろう?」と思ったが、あの澄んだ声を聴いたらすぐに「ミカエラだ!」と判った。)

今シーズンのピィの3作の中で際立って完成度の高い仕上がりと感じた。彼自身、自分のドメーヌ中にいると感じて作り上げたのだろう。
始まる前の舞台の雰囲気からアルセストの従姉篇のような印象があって、例の黒板風の壁が使われる。この壁にチョークでLIBERTÉと書かれた時には一瞬「またかー…」風な空気が客席に流れたが、こちらではアルセストほど文字は使われない。LIBERTÉの後にEN DIEU、もう1枚の仕切りの壁にÉGALITÉの後にDEVANT DIEUが付け加えられるのみ。(アルセストでは演出を簡単にするためかと疑いたくなるほど文字が多用されていた。だいたいフランス語を理解しない人には全く意味をなさないではないか!)
フランスでLIBERTÉ, ÉGALITÉときたら次はFRATERNITÉかと思うが、これは明確には示されない。が、この作品は修道女達のAMOUR FRATERNELもテーマの1つであるというのがピィの考えらしいので文字として視覚化されていなくても、底辺を流れる支流の1つと考えられる。

どこのシーンを切り取ってきても絵になるのだが、特にラ・フォルス邸から修道院長の居室に舞台が変わるシーン、前述の壁は四分割されるようになっていて、これが上下左右に分かれていく時に後ろからのライティングによって白い十字架に見え、ブランシュの運命が啓示されるかのよう。また牢屋から断頭台(断頭台はない)へ変わるシーンが美しい。両方とも白いライトが効果的に使われていて印象に残る。
舞台が複数に分割されて左右に揺れた後もとに戻るシーン、修道女達の心の迷いとそれが断ち切られて1つになることが明確に見える。

時々はさみ込まれる宗教画を模したシーンと最後の星空があまりにもナイーブな感じで個人的には「?」だった。この宗教画のシーンは修道女達の生き方に重ねられているのだろうか…最後の晩餐は何の象徴だろう?それとも本の挿絵のようなものだったのだろうか?
テオロジーを学んだピィなのできちんと意味をつけているのだと思うが、ポージングにもたついて舞台の流れが途切れて現実に引き戻されるし、私にはいまひとつピンとこなかった。

なるほどこう見せるかー、感心したのがクロワシー修道院長の臨終のシーン。
部屋を真上から俯瞰するようなセノグラフィになっている。つまり正面の壁が床になってベッドその他の調度品が置かれ、床が壁になって窓が取り付けられているのだ。この現実の世界ではあり得ない位置に観客を置くことによって、クロワシー修道院長の苦しみが客席にダイレクトに放射されることになる。プロゥライトの声がおどろおどろしく(もはや歌唱になっていないようなところもあって、それはそれでまた如何なものかと疑問だが)メイクも死顔なので、怖かったです、このシーン。

プティボンのピーンとした密度のある声はすべての音域でクリアに響く。プロジェクションもとても良い。あまりにもピュアな声の歌唱なので、それが一種の狂気というか「あ、この子は少しあちら側に行っちゃったところがある…」と感じさせてゾッとするところがある。演技も真に迫っていて、いや演技と言うよりも、彼女の少女のような体型、声から受ける印象も加わって、過敏で極限にふれやすくエキセントリックだが純粋なブランシュという少女(名前も無垢そのものですネ)がそのまま舞台上にいたように感じられた。

そしてコンスタンス役のジレ、もしかしたらプティボンの声にはピオの声より彼女の声の方が合っているかもしれない。ジレの声はあくまでも透明で明るく輝いていて、舞台上で唯一陽気さを感じさせる人物コンスタンスの描写によくあっている。その声で無邪気に「でも59歳ってもう死に時じゃなーい?」などと歌うので、昨夜の観客の年齢層だと軽いショックを受けた人が少なからずいたと思う(笑)。
でもどうして彼女は殉教に一度ノンと言うのにすぐそれを翻すのだろう?自分1人の意見のために他の修道女達の意志を折ることになるから?それなら最初からノンと言わなければいい。ここがシナリオとして不可解な所で、オペラのシナリオだったら「オペラだしね」で流せても、これは最初映画化される予定で書かれたものだから何か伏線がある(あるいは”あった”)んじゃないかという気がする。

声は美しいが少し俗っぽい歌い方でピッタリこない印象だったのがリドワンヌ新修道院長。対するマリー修道女長はコシュのプレゼンスに終始揺るぎない厳しさが加わって圧倒的。最後に「(修道女たちと共に殉教できず)名誉を失ってしまった」と叫ぶ時の混乱と動揺の気持ちとの対比が素晴らしい。ここでマリーと神父は客席の通路にいて、殉教の時を待つ修道女達とは隔たりのある場所にいることが明確に示される。
それからやっぱりトピ君のフランス語は異質すぎる。声も鼻にかかっていて美しく響かない時がある。ブランシュの兄としての心配や戸惑いはよく表現されているのに残念。

ロレールの指揮は衒いがなくスッキリとしていて、フィルハーモニアのまとまりのある音とともにプーランクの繊細なメロディーを織りなす。その音楽は表面に浮遊するにとどまらず、ソリストの歌声と共にぐっと深い所に入ってゆき、心の表面にストーリーを留めていく。
またコーラスも印象的。Ave Mariaの美しさには信者ではなくても心を洗われるような清々しい気持ちになるし、最後のSalive reginaからは神に運命を委ねた修道女たちの迷いのない心が伝わってきて胸をうたれる。

心に白く輝く小さな楔を打たれたような気持ちでTCEを後にした。


Jérémie Rhorer  direction musicale
Olivier Py  mise en scène
Pierre-André Weitz  scénographe (décors et costumes)
Bertrand Killy lumières

Patricia Petibon  Blanche de La Force
Sophie Koch  Mère Marie de l'Incarnation
Véronique Gens  Madame Lidoine
Anne-Catherine Gillet  Sœur Constance de Saint Denis
Rosalind Plowright  Madame de Croissy
Topi Lehtipuu  Le Chevalier de La Force
Philippe Rouillon Le Marquis de La Force
François Piolino Le Père confesseur du Couvent

Philharmonia Orchestra
Chœur du TCE           




2013/12/01

Elektra / エレクトラ ⑵ @ Opéra Bastille

1ヶ月前の公演と比べてどんな風に変わったか(あるいは変わっていないか…!)。そして私はエクスのエレクトラの印象にとらわれることなくアプリシエートすることができるのだろうか?という思いを抱きつつ出かけた最終公演。

前回のひんやりとしたエレクトラに比べて熱かったこと!!!
オーケストラもソリストも押しがよくて迫力が全然ちがった。迫力と言ってもただの大音響ではなく、音が一歩前に出て迫ってくる印象をうけるのだ。美しいメロディーは切ないまでに美しく、ただただ復讐心と憎しみに満ちたエレクトラを表現するだけでなく、亡き父親と彼女自身の失われた日々への鎮魂の祈りのような流れのように感じられた。それはテオリンの歌唱と抑えめの演技にも感じられることで、オケの奏でる音楽と彼女のパフォーマンスが一体となって1つの物語を作り上げていた印象である。
エレクトラが例の長方形の穴があく舞台中央に横たわった姿で作品が始まり、最後は再び同じ位置に同じ姿勢で横たわって終わる。まるで全ては彼女の夢の中で起きた出来事のようにもとれる。

前回も感じたが、クリテムネストラは冷静に自分の置かれた状態を見ている。だからオレストの死が伝えられた時「心の重しを取り除くこの知らせ…それでも完全な安らぎはない…」という意識で力なく笑うのだ(悪魔の哄笑ではない)。
でも、彼女にはアガメムノンを殺したいほど憎んでいた、その理由がある。彼女にしてみればエレクトラが復讐心に燃えるのと同じレベルの憎しみだろう。このオペラのストーリはそこをひとまず考えずにおいて、ということで書かれているのか、それとも「どんな理由があったって、お父さまを殺すなんて、許せないわーっっっっ!」というエレクトラの立場に立って書かれているのか、興味深いところだ。

オレスト役のニキーチン、「え、この役ってこんなに演技ついてたの?」と尋ねたかった(笑)。前回の動かぬ蒼く深い水の印象は声のニュアンスのみにとどまり、父の復讐の強い意志をもって帰ってきた、そしてそれは自らの使命であるという覚悟をうかがわせる演技。また辛い日々を過ごしたエレクトラを思いやる気持ちも表されているのに気がついた(ここの演出巧いなーと暗がりで独り頷きながら感心してしまった)。

ここら辺を過ぎたあたりで不思議よねーと思ってしまうのがエレクトラの言動。王宮に入って行くオレストを黙って見送り、しばらくしてから「あっ、いざというときに斧をわたせなかったー!」なんて、緊張感あふれる音楽の狭間でなんだか拍子抜けな感じがします。

あーあ、あと2~3回観て進化発展の具合を目で確かめたかった舞台だわー。残念ー!

はたと気づいたが、ジョルダンはまだ39歳(若いのう…!)。エレクトラの指揮は初めてだと思うが、ほとんど暗譜でこのレベルに仕上げてくるのはやっぱり凄いなーと。1年半くらい前まではピンとくるものは感じられなかったが、去年のカルメンからオーケストラと共にグワーンと変化してきたように感じる。これから人生経験を重ねて音楽的にどういう道筋を辿るのか、想像するだけで胸がワクワクする。このONPの総監督としてあまり評判のよくないジョエルだが、ジョルダンを音楽監督に据えてくれたことに感謝!




PARTERRE 18 4-6

2013/11/30

La Clemenza di Tito / La Clémence de Titus / 皇帝ティートの慈悲 @ Palais Garnier


コジとはやはり違った世界のモーツァルトを素敵に表現していた指揮&オケ(軽やかな弦はもちろん、木管がハッとするほど美しく歌っていた!)を除いて、あまり面白くない舞台だった。
スタイリッシュなセノグラフィを含めた演出をソリスト達が理解しないまま舞台に立っているように見える。あるいは演出自体が難解なことにともなうレペティション不足でこうなってしまったのか…。コーラスの演技に違和感はないが、ソリスト達の動きはバラバラで意味がないように感じられるし、最初の方は歌唱もそれぞれが勝手に自分のパートを歌っているようで全く統一感がなかった。
これがそれぞれのリサイタルだとして、ひとつ1つの歌唱を取り出してみれば良いものだろうに(始終音が少しずつずれていたようなアンニオ役は除いて)作品としてのまとまりが感じられないのは残念。やあっぱり演出の問題かなぁ

セスト役のドゥストラックは熱意が伝わってきて悪くなかったのだけれど「エクスのコノリー、良かったのよねー(彼女はルックスもカッコ良かったし!)」という意識を払拭するには至らず。
意外だったのが(と言っては全く失礼だが)ティートのピルグ。明るくかつ暖かみもある声で若く素直な(まだ政治の駆け引きなど知らないような)皇帝を無理なく歌い演じていた。他の役でも聴いてみたい歌い手。

それからあの大理石に見立てた巨大な角柱が徐々に頭部になっていく様子。あの茶色い厚紙でできたような王冠、斜めにしつらえられた舞台、これらも謎だった。エクスのティートはまた観たいと思うが(ティートはクンデではなくピルグでお願いします)このプロダクションはそう思わないなぁ。

TOMAS NETOPIL  Direction musicale
WILLY DECKER  Mise en scène
JOHN MACFARLANE  Décors et costumes
HANS TOELSTEDE Lumières

SAIMIR PIRGU  Tito Vespasiano
TAMAR IVERI  Vitellia
MARIA SAVASTANO  Servilia
STÉPHANIE D'OUSTRAC  Sesto
HANNAH ESTHER MINUTILLO  Annio
BALINT SZABO  Publio

BALCON 180-182

2013/11/25

I Puritani / Les Puritains / 清教徒 =Première=


意外な事にONPでの公演は1987年以来2回目という清教徒を、ペリーのチームがどのような作品に作り上げたか楽しみな新プロダクションの初日。
金属の棒だけで作られた、まるでサインペンと定規で三次元に描かれた分割可能な城と室内の壁がシーンによって使い分けられる。それ以外の舞台セットは何一つない極シンプルなセノグラフィだが、城自体が回転することと(ピィのトロヴァトーレは「回り過ぎ!」に見えたが、この城は線だけなのでその印象はほとんどない)、ライティングとホリゾントに映る映像で印象を変える美しいオブジェである。
またエルヴィーラを閉じ込める籠に見えるように意図されているのだろう。そのちょっと古くさく見えるようなところまでも含めあらゆる面で成功していた連隊の娘よりも、個人的にはシンプルで洗練されている今回のセノグラフィの方が好みである。

その(敢えて言えば)空っぽな舞台を埋めるのがソリストのプレゼンスとコーラスの人々である。宮廷の人々や兵士たちにはまるで機械仕掛けの人形のような動きがつけられていて、特に円錐状のスカートをはいた女性達はまるで舞台上を滑るように動くのが不思議で、全体的にコミックな雰囲気を漂わせていて面白かった。
コーラスの歌唱は…可もなく不可もなくというか、つかみどころのないもので印象が薄い。アイーダであれだけドラマチックだったのに、これは準備不足かそれともレペルトワールとして苦手ということだろうか?もう少し回が進んで改善されるといいのだけれど。

さてソリスト陣、楽しみにしていたエルヴィーラ役のアグレスタ嬢は意外にもそれほど良さを感じなかった。ディクションは明瞭、声の色合いも幅も豊かでプロジェクションもそこそこ良いのに、昨夜は最高音が狙ったところをほぼ全て外れていたし、コロラチューラも硬くて滑り気味になり、それをコントロールしようとして自然さに欠けていた。
発狂する前にそれが顕著で、その後は高音のボリュームを絞って歌いやすいように調整していたようだが、不自然な感じは拭いきれない。高音は彼女の得意ではないのだろうか。中音域の上半分ではつややかな歌声を聴かせてくれるのに…(ウルマナと似ているわね、ここら辺)。
最後のカヴァレッタがなくて「あれ?これでお終い?」という感じになってしまうのが少し残念だった。

エルヴィーラのフィアンセ、アルチューロ役はコルチャク。
最初のアリアは緊張からか声は大きいもののレガートはブツ切り!ベルカントの美しさからは程遠い歌唱で、この先どんなコトになるのかと心配したけれど、以降は調子を戻してきて一安心。先日ガルニエでコジのフェランドを歌った時には鼓膜が破れるかと辟易させられたが、やはり彼の声はバスティーユサイズだ。去年TCEで聴いた時に比べると、場面に応じて少々ニュアンスがついているかなー…という印象を受けたが、やはりパワーに任せた一本調子で朗々と歌いすぎる。正義感あふれる直情型のアルチューロにピッタリはまって効果的なこともあるが、そのうち飽きてくるのだ、こういう歌唱は(全長3分のナポリ歌謡ならいいと思うけど…w)。
そしてデュエットの相性は声の印象だけで言うならTCEでのペレチャツコとのデュエットの方が私は好みだ。あるいはヨンチェヴァ。

エルヴィーラのアグレスタより期待していたのはリッカルドのクヴィエチェン。「うん、君の心情は本当に手に取るようによく解るよ」と話しかけたくなるパフォーマンス。巧いなー…。ディクション良く、滑らかなレガート、役にピッタリの深みのある声とそのニュアンス、ルックスに似合わず繊細で役に酔わずきっちりと歌い上げるところなど、充分に楽しませてもらった。
しかしながら…真面目な一刻もののリッカルド一辺倒なので、アルチューロとエンリケッタを逃がす際「此奴が王女を連れて逃げて消えればエルヴィーラはオレのものさ、フフフ」などと考えているようには見えず、役者としてはいまひとつだったな、という感があり、次回はどうなってくるかまた楽しみ。

そして昨夜のベストパフォーマンスはジョルジオ役のペルトゥージ!
まず歌唱的にほぼ非の打ち所がなく(ほぼ、というのはもしかしたら上のバルコンでは聞きづらかったかもしれないというプロジェクションの問題)、その歌唱でノーブルかつ姪を思いやる心を存分に表現している。そのたたずまいや動きもまた良く、歌唱に説得力が加わる。

このリッカルドとジョルジオのデュエットがいちばん素晴らしく、聞き応え抜群。バランスはジョルジオの方に傾いていたような気がするが、リッカルドもよく頑張っていた。ヴェルディがカルロとロドリーゴに歌わせる前に、ベッリーニがこの2人に “Bello è affrontar la morte  Gridando: libertà!” と歌わせていたとは、昨夜の新発見(笑)。


MICHELE MARIOTTI  Direction Musicale
LAURENT PELLY  Mise en scène et costumes
CHANTAL THOMAS  Décors
JEAN-JACQUES DELMOTTE  Collaboration aux costumes
JOËL ADAM  Lumières

MARIA AGRESTA  Elvira
DMITRI KORCHAK  Lord Arturo Talbot
MARIUSZ KWIECIEN  Sir Riccardo Forth
MICHELE PERTUSI  Sir Giorgio
LUCA LOMBARDO  Sir Bruno Roberton
ANDREEA SOARE  Enrichetta di Francia

WOJTEK SMILEK  Lord Gualtiero Valton

2013/11/02

AIDA / アイーダ ⑶ @ Opéra Bastille

Bキャストを観て少なからず不満が残り(AB各1公演しか席を手配していなかったので)「これで終了するわけにはいかないワ」と息まいたものの私が行ける日はすべてソールドアウト。なかなか戻りチケットもなかったが何とか手に入った今日のAキャストの公演。

前回のスミスの代役氏とボチャロヴァの記憶を払拭してもらいたかった2人、アルヴァレスとディンティーノ。
まずアルヴァレスは続けてキャンセルしたスミスの代役で歌ったというので(なんて贅沢な代役)相当調子がいいのかと思ったが、それほどでもなく…。Celeste Aidaなどはジョルダンがカゴの中の卵のように大事に支えていたように見え、軽い風邪でもひいているのかしらと思ったくらいには元気がない印象を受けた。開演前に例の「◯◯氏は不調ですが…」があっても不思議ではなかった。
それでも彼独特の帆に風をうけて大海原に出帆していくようなメロディアスな歌唱、これは聴いていて爽快感があるし、丁寧に歌っているので(元気がよすぎてうっかり秘密をもらしてしまって”アチャー!”というラダメスではなく)誠実でおちついたラダメスを観ることができた。

ディンティーノはおそらく絶頂期を過ぎていると思わざるを得ない声だけれど、そのフレージングとディクション、オケが紡ぎだす音楽への歌唱ののせ方は他のソリストから抜きん出ていると感じる。そしてなんと言っても舞台上の彼女は叶う望みのない恋に翻弄されて苦しむ王女アムネリスそのものなのだ。
ラダメスの裁判のシーン(舞台裏でのラムフィスとコーラスの歌唱、これがまた見えない所からゴゴゴーとせり出してくるかの如くで素晴らしい!)では無力感と焦燥感に打ち拉がれる様子が真に迫っている。役者だワー…。
最後の "Pace t'implore, ... pace, pace ... pace!" は彼女のすぐ下で高らかに歌っているアイーダとラダメスの存在を霞ませるほどの深みのある祈りのこもった声(決して大声ではない)とプレゼンス。今思い出しても背中がゾクゾクするようなこの部分だけでも観て聴く価値があるというものです!と言うより、実はココを観て聴きたかったと言っても過言ではないかもしれない。

2013/10/31

Elektra / エレクトラ ⑴ @ Opéra Bastille


美しくひんやりと冷たいエレクトラ。
全編にわたってギリギリと弓を引き絞るような緊張感、禍々しさの澱み、爆発するような荒々しさは感じられない。最後の5分間はそれまで抑えられていたものが一気に噴出するパワーを感じる。ソリストもオーケストラもひんやりとした印象のパフォーマンスである。
それは登場人物ひとりひとりの精神分析をするかのような演出のためかもしれない。エレクトラには同じヘアスタイルに同じ黒のドレスを着た分身が25人ほどいて、彼女の精神状態や欲望を表すとともに、その分身たちの存在がエレクトラを巫女のように見せることがある(エレクトラ自身に巫女のような演技がつけられているシーンも)。
この分身たちは時に劇的な効果があり(オレストとの再開のシーン、エギストへの殺意)、時に煩わしくもある(クリテムネストラのベッドを運ぶ、ラストシーンでバタバタと倒れる)。

まるで焼却炉の底のような舞台、床全面に土が敷き詰められているのはピナ・バウシュの舞台を思わせる。この土がライティングによってテクスチャーを変えて視覚的効果が高い。
召使い達の会話が進む間、エレクトラは中央に倒れるように横たわっている。アガメムノン殺害の語りの場面で中央部に長方形の穴があき、そこからアガメムノンの死体と思しき男性が死体の如く横たわったまま現れる(彼は入浴中に暗殺されたので死体は裸体)。父親の遺体をかき抱いて嘆いたあと(役の入れ替わったピエタのように見えるが、音楽とはかみあわない)分身達が彼を頭上に掲げて舞台を回る。その遺体は穴の左側で分身に囲まれて立ち、静かにエレクトラと抱き合った後にその穴の中に消えていった(ように見えた)。
この穴はエレクトラの心中への入口として象徴的に使われるのかとおもいきや、宮殿への入口としても使われる。この使い方は少々疑問。

このエレクトラの最初のシーン、復讐の炎をメラメラと燃やしているように聞こえない(”Agamemnon!”は疲れきった声である)。これはテオリンの調子が悪いのか、演出としてそうなっているのか…?ここだけでなくテオリンの声はほぼ高音しか聞こえてこないのが意外だった。ジョルダン&オケが音の壁を作っていたわけではないし、マイヤーをはじめとして他のソリストの声はちゃんと聞こえたのに(席はプルミエバルコンの中央1列目)。
クリソテミスとの対話のシーンは印象に残っていない。姉妹の声がよく合っていて仲のよい姉妹の他愛ない口喧嘩のように見えたことは覚えているが…。

舞台中央奥の暗がり(といっても壁のこちら側)から純白のサテンのドレスを着て純白のベッドに入ったクリテムネストラが現れる(これを持ち運ぶのは分身たち)。
ドレスにはしみ1つなく、美人メイクに髪も綺麗にセットされていて美しいクリテムネストラである。身につけている魔除けの宝石は巨大なダイヤの指輪ひとつだけ。
母娘が対峙するシーンはクリテムネストラに、と言うよりマイヤーに軍配が上がる。不眠の原因を正当化しようとしてもできない恐れと焦りに、エレクトラにすがってでも自分を立て直そうとする姿、そこに自己の破滅につながる一抹の諦めを感じさせるところなどは発狂寸前どころかかなり冷静に自分を見つめているように思われる。

登場人物のなかでいちばんひんやりとした印象を与えるのがオレスト。エレクトラが冷たく燃える炎とすれば彼は蒼く深度のある水である。きっちりと置かれた深みのある声が美しいレガートを描き、一瞬「オレストの亡霊?」と感じるほど。

振り返ってみて、私は見方を失敗したと思う。エクスのエレクトラを頭から出して観ようと思ってはいたが、やはりそれは無理で、無意識のうちにあの衝撃をどこかで探し続けてしまったのだ。よく反芻してもう1回観たい(1ヶ月先になってしまうけれども)。


PHILIPPE JORDAN  Direction musicale
ROBERT CARSEN  Mise en scène
MICHAEL LEVINE  Décors
VAZUL MATUSZ  Costumes
ROBERT CARSEN, PETER VAN PRAET  Lumières
PHILIPPE GIRAUDEAU  Chorégraphie

WALTRAUD MEIER  Klytämnestra
IRENE THEORIN  Elektra
RICARDA MERBETH  Chrysothemis
KIM BEGLEY  Aegisth
EVGENY NIKITIN  Orest
MIRANDA KEYS  Die Aufseherin


PREMIER BALCON  1-12

テオリンはお母さんを亡くしたばかりでレペティションにほぼ出られなかったという話だが(ジェネラルだけ参加したらしい)、そういう状態でよりによってエレクトラ過酷すぎる。

2013/10/20

AIDA / アイーダ⑵(@Opéra Bastille)

初日のAキャストに続くBキャスト。本来はロバート・ディーン・スミスがラダメスだったが、前日のONPのツイートで知らされたように彼はキャンセルし、全く未知の代役が歌った。それにしてもCeleste Aidaからしていただけない。あんなにブツ切りにするとは息が続かないのだろうか?まず声で魅了することが無理ならばせめて美しいレガート、はっきりとしたディクションなどを確立しておくべきだと思うが、それも望むべくもないパフォーマンス。スロースターターでクレッシェンドに良くなっていくかという願いも途中で空しく消えた。あるのかないのか解らないような演技のディレクションも彼の脚を引っ張ったと言える、中途半端なパフォーマンスの見本のようだった。

ボチャロヴァのキャラクターとプレゼンスはアムネリスに合っていると思うし、声のプロジェクションもよいけれど、何故か「いや違うでしょう」という印象がぬぐい去れない。おそらく「アイーダの主役は私だから!よく見てちょうだい!」という意気のようなものがゴリ押しのように感じられて辟易させられたのかもしれない。しかし最後の "...pace.." にまったく祈りが感じられないのは致命的じゃないだろうか。

そのタイトルロールのガルシア。彼女の声と歌唱はすごくイノセントな響きをみせることがあって、それが囚われの身の”王女”というノーブルさを感じさせる。下手をすると「ワタシここで何やってるのかしら?」と実際に自問しているのではないかと思わせるほどだ。そして彼女の声にはニュアンスがあり、戸惑いや悲しみなどの感情が声を通して伝わってくるのがよい。またそれがいたって自然で無理がない。ピアニッシモで長く保ちきれずに終わってしまっても、それがアイーダの心の弱りを表しているように聞こえるほどである。アルヴァレスとのペアで聴きたかった、本当に!

意外といっては失礼だが今日の舞台的なプレゼンスの筆頭になるのはラムフィスのスカンディウッツィ。王も兵士も神官(このmesでは司教?)もすべてを睥睨するかの如き朗々とした威厳のある歌唱、堂々としたプレゼンス、相対的にみて株が上がったのかもしれないけれど、この役でこれだけ満足させられることもそれほどないと思う(笑)。

この公演でアイーダを終わるのはどうしても我慢がならないので、もう一度Aキャストの公演を観に行くことに。まったく散財の種が尽きない…。

Carlo Cigni  Il Re
Elena Bocharova   Amneris
Lucrezia Garcia   Aida
Zwetan Michailov   Radamès
Roberto Scandiuzzi   Ramfis
Sergey Murzaev  Amonasro
Elodie Hache  Sacerdotessa
Oleksiy Palchykov  Un Messaggero



PARTERRE 13 20-22

2013/10/12

DON CARLO / ドン・カルロ (@ Teatro alla Scala)



これが6月にバレンボイムの指揮でワルキューレを聴いたのと同じオーケストラだろうか?
前回の音のイメージと比べると、厚く落ち重なった秋の枯葉は影をひそめているようだがほぼ変化はない。そして前回は感じられなかった、刈ったばかりの芝生のようなフレッシュさと、使い込んだ麻のシーツの肌に心地よいしなやかさの両方を持ち合わせたオーケストラの音の素晴らしさが際立っている。

その音を材料に、ほどよい厚みがありながら重くならず、軽やかながら空まわりせず、それぞれのパートがしっくりとなじみあいながら職人技で織り上げられたと言うしかない音楽が、オペラの進んでいく道すじに絨毯のようにさーっと広げられていく。この絨毯の上を歩くソリスト達は幸せだ…。
オーケストラがまるで彼を慕って付き従っていくかのようなルイジの求心力、彼の動きの全てが音とリズムになって表されてくるのが見えるようなので、彼とオーケストラとコーラスのひとりひとりがそれぞれ1本ずつ糸で繋がっているのではないかと疑いたくなる。それに加えてヴェルディのパーティションの理解を共有しているからこそ、縦糸と緯糸のズレも歪みもなく仕上がっていくのだろう。これはやはりイタリア人指揮者の振るスカラ座オケのなせる技か。
長大なクレッシェンドが無理やわざとらしさを感じさせずに、これ以上は考えられないというレベルで実現され、最後のフォルティッシモが心地よい。
余計な飾りを排して聴く者の心の前に率直に差しだされるその音楽を心ゆくまで味わう至福の体験だった。

フィリッポの"Ella giammai m'amo”の冒頭、チェロの音が泣いたようにに湿っぽくならず、むしろ乾いた音がフィリッポの暗く翳った荒れ野のような心の風景を描き、その無情感をさらに増す。続いてその荒野をひとり行く王の足取りを悲しみに満ちた音色のヴァイオリンがトレースする。
そしてここのパーペの味わい深いこと!今日のソリストの中ではいちばんのパフォーマンス。椅子に座ったままで派手な演技がなく、足元に置かれた燭台と宝石箱以外に何も飾りのないセットの中に孤独なひとりの男としての王の姿がリアルに浮かび上がってくるのだ(机につっぶしたり、カーテンにすがりついたりしなくても心情は表現できるものなんです。本当にいいですね、この演出!)。私のドン・カルロの愛聴盤は61年サンティーニ指揮のスカラ座オケのものだが、今夜のパーペの歌唱はここでフィリッポを歌っているクリストフに匹敵するすばらしいもので、驚きとともに心を打たれた。6月のヴォータンを聴いた時の落胆を帳消しにして余りあるほど。最後に宝石箱を膝の上に抱いてうつむくところなど、冷えびえとした孤独の内にエリザベッタへの置き所のない熾火のような愛を感じる。

次点はロドリーゴのマッシモ・カヴァレッティ。彼自身のスタイルの完成にあと一歩という印象を受けるが、一生懸命にひたむきに歌い演じる様子がロドリーゴのニンにぴたりと合って観ていてまことに清々しい。自分に歌や台詞がない時も舞台にいるという意識があるのもよい。若手だと思うがこれから磨けばさらに光るに違いない。ディクションははっきりしているしフレージングも滑らかだし、声の色合いも力強さもヴェルディを歌うのにピッタリなんじゃないかしら。今後の活躍が気になるソリストである。

その他のソリストはドングリの背比べみたいなもので、エリザベットのセラフィンがすこし抜きん出ていたかなという程度。彼女は自分の中にあるエリザベッタのイメージを作り上げるのに全力を尽くしていた感じで、まさにそれは成功していたのだが、結果的にスケールが小さくて型にはまったようなので聴いていて感動するものではない(王妃としてのプレゼンスはあって舞台映えはする)。

エボリのグバノヴァ、力み過ぎか不調かでレガートに難あり。彼女の声はフリッカには合っていてもエボリには重すぎる感じがする。そしてプリンチペッサなのに声にも立ち居振る舞いにもノーブルさはなく、民間の豪商のワガママ娘のように見えた。

修道士と異端審問の長官の2人は声が若々しくて深みと重みに決定的に欠ける。修道士には亡きシャルル・カンを感じさせる重々しさはなく、異端審問官の方は第3幕のシェーナでフィリッポとのバランスが悪い。

そしてタイトルロールのサルトーリ…。あぁ未だにデリート不可能なイメージ、カルロの登場シーン。舞台下手奥から中央にむかって小走りに出て来るが、あのルックス+衣裳のせいで黒い黄金虫が坂を転がってくるように見える。そのあまりにもコミックな様子に思わず笑いたくなったほど。ドン・カルロって喜劇ですか?!そしてニュアンスのない一本調子の歌唱ながらもイタリアものを歌うと声の美しいのがとりえのはずなのに、今日は出だしからその声の表面がざらついている。デュオになると相手の声で粗さが目立たなくなるものの、ソロの部分では隠しようもない。彼は役者の意識が欠如しているのか、他のソリストが歌ったり演じたりしている間は棒立ちでボンヤリという大根役者のレッテルも貼れないような困ったタイトルロールである。でもドン・カルロで大事なのはフィリッポとロドリーゴなので、目を瞑ることにしましょう(と言うか本当に目を瞑りたかった)。


Filippo II, Re di Spagna  RENÉ PAPE
Don Carlo, Infante di Spagna  FABIO SARTORI
Rodrigo, Marchese di Posa  MASSIMO CAVALLETTI
Il Grande Inquisitore  STEFAN COČAN
Un Frate  FERNANDO RADO
Elisabettta di Valois  MARTINA SERAFIN
La Principessa d’Eboli  EKATERINA GUBANOVA
Tebaldo, paggio d’Elisabetta  BARBARA RITA LAVARIAN
Il conte di Lerma  CARLOS CARDOSO
Un araldo reale  CARLO BOSI
Una voce dal cielo  ROBERTA SALVATI

Direttore  FABIO LUISI
Regia e scene STÉPHANE BRAUNSCHWEIG
Costumi  THIBAULT VANCRAENENBROECK
Luci  MARION HEWLETT

Palco No.14 ORD.III 1-2

*ワルキューレのカーテンコールの時はバレンボイムが登場する前に既に3分の1以上のオケの団員はいなかったし、残りの団員もサーッと退場してしまったが、今日は違った!ほぼ全員がピット内に残って舞台上のルイジにむかって大きな拍手をおくっていた。好かれてるんだろうな、ルイジ。
*すぐ後ろの席だった年配のご夫婦、フランクフルト郊外からオペラ好きの友人達とバスをしたてて木曜日にやってきたと。フランクフルト・ミラノ間って何百キロあるんですか?!
数年前にバスティーユで観たカーセン演出のタンホイザー(タンホイザーが画家に設定されてるプロダクション)が何から何まですべて良かったと言っていた。

2013/10/10

AIDA / アイーダ ⑴ @Opéra Bastille -PREMIÈRE-

サングラスが必要なセノグラフィ!
この神殿が開いたり閉じたり回転したりする時に強力なライトが反射してすごく眩しい。
1968年にレオンティーン・プライスがタイトルロールを 歌って以来ONPでは上演のなかったアイーダ。今シーズン45年ぶりに復活ということでファンの期待も高かった公演の今日が初日。
第1幕はなんだか今ひとつキリッとせず、怠いパフォーマンス...。特にソリストの動きが練習途中のようだ。たいした演技がついているわけではないのに。
演出の設定は悪くないと思うのだけれど、カムフラージュのユニフォームを着てマシンガンを持ったフィギュランの使い方が消化不良かあるいは...いっその事ない方がよかった。
いやー、第1幕が終わったところで既に大ブーイングですよ!
セノグラフィだけ見たらとてもアイーダとは思えないけれど、国威発揚とナショナリズムをモチーフにしたのはここまでブーイングされるほど悪いアイディアではないと思う。それどころかアイーダとラダメスの悲恋物語の底辺にあるものはまさにそれだし、ジョエルのようにコロニー時代に設定する解釈もある。ピィはリヴレの歌詞をそのまま三次元にして舞台にのせたと言えるくらいだ。
ただあの死体置き場の累々たる死体、第3幕でアモナズロの「…母達や…を虐殺し」のところで上の通路から落とされてずっとぶら下がったままの死体、その真下にも転がる死体、安直なスローガンのプラカード、燃える十字架とKKKの白装束の人々、金色に輝く戦車、むやみに動き回る兵士、アムネリスが持つピストル、アマチュアみたいなダンサー等々…「うっわー、何なのコレ?」といわゆる目が点になるようなモノがいろいろと出てくるわけです。
エジプト→オーストリア、エチオピア→イタリアの完全読み替えで、ピィの意図するところが前述の多過ぎるいらないモノで邪魔されていたと思う。まぁ彼自身がまいた種ではあるが。でもこれから手直しをしていけばそれなりの作品になるんじゃないかと感じさせるプロダクションではないだろうか。
しかし!バレエの場面は全然ダメ!というかあれはバレエとかダンスとか呼べる代物ではなくお話しにならない。ピィにはバレエに重きを置くつもりがなかったのかもしれないが、あれだけの音楽があるのにただアマチュアかと疑いたくなるようなダンサーのPDDや、上半身裸でウロウロしたり悪ふざけのお仕置きにお尻を叩かれる兵士なんて全くつまらないし、手抜きとしか思えない。これなら何もない方がまだましじゃないかと思うレベル。ラ・ジョコンダを観てバレエが作品に与える影響力を学ぶべき!

タイトルロールのオクサナ・ディカはよく通る声でディクションもよいけれどピアニシモの繊細さとメゾピアノの柔らかさに欠けた一本調子になりがち。そのため全幕物のオペラではなくまるでリサイタルで歌っているような感じ。いや、リサイタルでもこればかり聴かされたら飽きるでしょう。
そして相手のソリストと反応しあって融合するどころか、意志の疎通さえもほとんど感じられないのが残念(これは演出のせいもある)。声にニュアンスをつけて苦悩や悲嘆の表現がもっとできるようにならないとアイーダは無理じゃないだろうか。まだキャリア的に時期尚早だったのかも。無理な話だが60年代のプライスの舞台を観てみたかった…!
その横でデュオの相手アルヴァレスの歌唱がよいので余計そう聞こえたのかもしれない。大音量の声ではないが、ニュアンスに富んだ声色と歌詞とシチュエーションに真実味を与える歌唱だ。ソロの部分は出だし慎重で、Celeste Aidaはそれほど心に迫るパフォーマンスではなかったが美しい仕上がり。その後時々居心地悪そうに歌うことがあって(レガートが切れる)、ドライブ感よく歌っていたラ・ジョコンダの時より緊張が高い印象を受けた。
アムネリスのディンティーノ、高音と低音の胸声であまりにも声が違いすぎて戸惑わされる。5速から急に3速にあるいはその逆にギアチェンジをする感じで、声のテクスチャーもサテンとビロードのようで差があり過ぎて…。でも彼女の王女としての存在感は流石。

今日のオーケストラ、ドンチャカガッシャーンのアイーダではなく、メロディアスでかなり交響曲的な響きのアイーダを聞かせてくれた。ピットにしまっておくのは惜しいミュージカリテ。金管はヴェルレク以降かなり良くなったように聞こえた。前奏曲、目を閉じると砂漠のオアシスの上に広がる満天の星の輝きが見えるような美しさ、一番最後のアムネリスの "Pace t'imploro, ... pace, pace... pace!" の部分はディンティーノの祈りのこもった深みのある声とともに静かに本を閉じるイメージ。


コーラス、ジョルダン&オケには賞賛の拍手。
(舞台右手には白い死体が2つ…これずーっとこのままで目障りで仕方なかった。)

ジェネラルがカオスだったと聞いていたし、案の定ものすごいブーイングだったのでピィは出て来ないんじゃないかと思ったら「いや〜やっぱりすごいブーイングだな〜」というような苦笑とともに小走りで出てきた。えらい(笑)!
個人的には不可解だったアルセストより意図するところの読み取れるアイーダの演出の方が好み。でも目障りな小道具類は見直してもらいたいですね!それからピィはどうもソリストへの演技のつけ方が上手くないんじゃないか。アルセストでも感じたが、今回もまた演技がついているのかいないのかよく解らない中途半端なソリストの動きが気になった。
10月10日はヴェルディの誕生日。バスティーユでは新プロダクションのアイーダ(ものすごいブーイング付き)の初日+ガルニエでは椿姫の最終日(アニエスのアデュー)だったので、記念になるなと思ってディストリビューションの入ったポスターを貰ってきた。


Philippe Jordan
Direction musicale
Olivier Py
Mise en scène
Pierre-André Weitz
Décors et costumes
Bertrand Killy
Lumières
Patrick Marie Aubert
Chef du Chœur
Carlo Cigni Il Re
Luciana D’intino  Amneris
Oksana Dyka  Aida
Marcelo Alvarez  Radamès
Roberto Scandiuzzi   Ramfis
Sergey Murzaev Amonasro
Elodie Hache Sacerdotessa
Oleksiy Palchykov Un Messaggero


Orchestre et Choeur de l’Opéra national de Paris


2013/09/28

Alceste / アルセスト @ Palais Garnier



グルックがこの音楽で何をしたかったか理解することはできなかったが、ミンコフスキーの指揮するオーケストラのアンサンブルが緻密でしなやかな、時に絹、時にカシミア、時にサテンといったような様々なテクスチャーの音を堪能した。
開演前に「本日ソフィー・コシュとヤン・ブーロンは不調ですが、2人とも舞台に立つことを了承してくれました」というアナウンスがあり、結果としてはやはり2人とも不調だった感は否めない。
ミンコフスキーが非常によく気をつけてソリストを助けていたので破綻せずにすんだが、何と言うかこう考え考えコントロールして歌っているようで伸びやかさがなく、聴いている方は安心して音楽に身を投じることができない。おまけに演技がとってつけたようで印象を更に悪化。

フランク・フェラーリ演じるエルキュールがマジシャンなのも安っぽい。棒から造花の花束出したり、上着からコロンブ(本物)出したり、アルセストが戻って来る時にはキラキラ光る粉を撒いたり。ドゥルカマーラじゃないんだから…!ザルツブルグのデュモーを観た時にも思ったが、演技力のあるソリストに悪趣味な演技をつけられると、どこをどのようにアプリシエートしたらよいのか本当に困る。

よかったのがアポロン、エヴァンドル、コリフェソプラノ、コリフェアルトの4人!声質がちがうのにアンサンブルとしての混ざり具合がよくオケの音にすんなりと乗り、ソロで歌う時はそれぞれ際立っている。特にコリフェソプラノの声は天使の声とよびたくなるような声で、特にピアニシモは天に繋がる細い金の鎖のように美しかった。


演出は…左右に開く巨大な黒板に絵を描いたり消したりする人々に気を取られてしまうことと、それが梯子と一緒に(私が感じるには)不必要に絶えず開いたり閉じたりするので煩わしい。第2部でピットを地獄として使いたいためにオケを舞台に上げるというのも、簡単過ぎる気がする…。
あの蛍光灯がまぶしくて目が眩んだ。日本のスーパーやドラッグストアもそうだけれど、明るすぎて眉間がクァーンとして不快になる。
「死の床」風な白い病院のベッドのようなのも何とも微妙な感じ。白いロングドレスに黒いダブルのロングコートというのも見飽きた衣裳だ。他の衣裳もいたって普通で代わり映えしないもの。「死」を表す黒い衣裳を着て踊る人もどこかのタンホイザーの演出で出てきたダンサーを思わせた。こちらは1人だけで衣裳は長いスカートになっていたけれども。
ということで、アイーダの演出がどんなものに仕上がっているのか、不安が増す…。

Marc Minkowski
Direction musicale
Olivier Py
Mise en scène
Pierre-André Weitz
Décors et costumes
Bertrand Killy
Lumières
Yann Beuron Admète
Sophie Koch Alceste
Jean-François Lapointe Le Grand Prêtre d’Apollon
Stanislas de Barbeyrac Evandre / soli ténor
Florian Sempey Un Hérault d’armes, Apollon
Franck Ferrari Hercule
Marie-Adeline Henry Coryphée / soli soprano
François Lis L’Oracle, Un Dieu infernal
Bertrand Dazin  Soli alto


Choeur et Orchestre des musiciens du Louvre Grenoble


PARTERRE 342-344

ガルニエの上で竪琴を掲げているのがアポロンだと知る人と知らない人の割合はどのくらいのものだろうか?



2013/09/10

Lucia di Lammermoor / ランメルモールのルチア ⑵ @Opéra Bastille

ストのためセットなしでの公演

パワーアップしてバランスのとれたBキャストだった。
ヨンチェヴァの瑞々しく力強い声がバスティーユの空間を満たす。声に幅と深みがあり、聞き応え抜群。しかし、しかし…活き活きしていてルチアの薄幸感というか、脆さが微塵も感じられない。そして最初から最後まで何かにチャレンジしているようで不自然な感じがしてしまうのは若さ故か…。声だけ聴いていると艶やかないい声なので、ルチアよりはエルヴィーラの方が合うのではないだろうか。あるいはジルダとか…。あと最初から最後まで元気がありすぎて不自然なルチアになってしまっている。彼女の声は自身のキャラクターも合わせて健康的な魅力があるので、精神に異状を来して死ぬ役には合わないなぁと感じた。

ペテアン、よく通るベルカント向きな声ですべての音域でコントロールの利いた巧い歌唱。悪人顔も役にピッタリである(笑)。役者としてはおそらくテジエより上手と見た。
ファビアノは今日の敢闘賞。初日のグリゴーロと比べて遜色ないどころか、カーンと突き抜けるようなプロジェクションと無理のない高音(所々フロレス的な輝きが感じられる!)、ぼやけない中音域、そして”ファビアノ”ではなく”エドガルド”であった(これすごく大事だと思う)。チョーフィとのペアで観てみたかった。

この日の公演はストの影響を受けてセットもライティング効果もなく、衣装と小芝居付きのコンサートバージョン。セットやほぼ小道具なしのソリストはもちろん苦労しただろうし、コーラスは歌わない時は椅子に腰掛けていたものの、最初から最後まで舞台上にいたので大変だっただろうなぁ…。
第1部第2部通して舞台上にあったのは、鉄製肘掛け椅子(実際の舞台で使われるもの)1脚とその両脇にコーラスの人々が座っているのと同じ椅子が2脚。2部では木の切り株と斧も置かれるがほとんど使われず。たったこれだけの小道具で準備の時間もそれほどなかっただろうに、想像力を働かせて演じてくれたソリストたちの熱意に心からの拍手をおくった。


George Petean / Enrico Ashton
Sonya Yoncheva / Lucia
Michael Fabiano / Edgardo di Ravenswood
Alfredo Nigro / Arturo Bucklaw
Orlin Anastassov / Raimondo Bidebent
Cornelia Oncioiu / Alisa
Eric Huchet / Normanno 

PARTERRE 15-29

2013/09/07

Lucia di Lammermoor / ランメルモールのルチア ⑴ @Opéra Bastille

2013−2014シーズンはルチアで幕開け


チョーフィの、ルチアに乗り移られたような、ルチア。おそらく彼女自身歌い終わった後で我に返り、観客の反応で自分のパフォーマンスに思い至ったのではないか。先シーズンのフロレスに匹敵する、いやおそらくそれを超えた観客の熱狂ぶりだった。
アリアの後の場が終わった所でカーテンコールに出てきたチョーフィ、レヴェランスの後にストンと倒れるように踞って泣いてた。非常に敏感な神経の持ち主で、たった今歌い演じたルチアに感化されているのだろう。公演後は心身ともに消耗しているのだろうなぁ…。
確かに声に豊かな肉付きはない。届く声ではあるがプロジェクションも弱め。でもベルカンティストとしての声の色の美しさやその声をしなやかにメロディーにのせる技、そして何よりもルチアの感情が内面から放出されるような歌唱に完全に魅了された。明日からCFの舞台に立てるようなバランスの取れた的確な演技にも驚かされた。
テジエはもうエンリコそのもので、やはり彼は屈折したところのある役の方が魅力がある。この演出では演技的に高レベルなものを要求されないことも幸いしただろう。声の安定感や陰影のつけ方、メリハリのある歌唱など、これだけのレベルで安心して聴ける歌い手もなかなかいない。
グリゴーロも彼らしく(エドガルドらしい、ということではなく)、力一杯歌い演じていたけれど、何と言うのかこう声を張り上げ過ぎだったり演技がオーバーだったりして気になった。ピアノは大事に歌いすぎるせいかわざとらしく聞こえるし(ピアニシモ、メゾピアノ~メゾフォルテは存在しないようだ)、フォルテは完全にフォルティッシモになってしまい、長いアリアでは白けてくる。そして重唱の時など他のソリストとのバランスが大変に良くない。もっとインテリジェンスのある歌唱と演技ができる人だと思っていたのだが、思い違いだろうか…?
ライモンド役はラ・ジョコンダでアルヴィーゼだったあのアナスタソフ。役柄にピタリと合ったスタイルと厳粛な雰囲気の声、ブレのない演技を観て彼はアルヴィーゼのような役よりもライモンドのような感情抑えめの役の方がニンにあうのだと理解。
初日ということもあってか、コーラスが少し遅れ気味なところがあったり、ソリストの融合感や全体的な調和感にいまひとつなところがあったけれど、これから熟成していくだろうし、あのチョーフィのパフォーマンスの前には些細なことで、それを堪能できただけで幸せである。
セルバンの演出は陰鬱なグレーのセノグラフィーとともに一見したところ意味不明なのだが、巨大な鋼鉄(と木?)のストラクチャーが歪んでしまうことで「あぁルチアは壊れてしまった」と視覚的に表すところなど上手いなぁと思う。また軍隊や体操といった動かしがたく規律の厳しいブリュットな男性社会に場面を設定し、対してブランコや平行棒などでルチアの揺れ動くフェミニテとフラジリテを際立たせているなど、後々反芻してみるとなるほどそうかと思わされる。高見の見物をしている人々が表すものは何なかなど、判らない部分も残るけれど…。

LUCIA DI LAMMERMOOR
MAURIZIO BENINI  Direction musicale
ANDREI SERBAN  Mise en scène et lumière
WILLIAM DUDLEY  Décors et costumes
ALESSANDRO DI STEFANO  Chef de choeur

LUDOVIC TÉZIER  Enrico Ashton
PATRIZIA CIOFI  Lucia
VITTORIO GRIGOLO  Edgardo di Ravenswood
ALFREDO NIGRO  Arturo Bucklaw
ORLIN ANASTASSOV  Raimondo Bidebent
CORNELIA ONCIOIU  Alisa
ERIC HUCHET Normanno


PARTERRE 10 9-11

2013/08/06

神々の黄昏の演出 6/6(第3幕その2)

大階段は舞台後方に下がり、スクリーンパネルは同じ場所、その後ろにはジークフリートが倒れている。上手からオロオロと登場のグートルーネ、下手からハーゲンとグンターが帰って来る。
ジークフリートの指輪をめぐって2人が争いハーゲンがグンターを殺すシーン、舞台下手にいるハーゲンが車椅子に座ったまますぐ側に立つグンターを絞殺して突き放し、ハーゲンはその勢いで舞台袖に転がって退場という形になるが、ここはどうしても「こうするより他に手がなかった」という印象が拭えない。
また例の「ハーゲンがジークフリートの指から指輪を取ろうとすると、ジークフリートの腕が持ち上がる」というシーンはないし、"Her den Ring!"と言ってもハーゲンはその場から動かない。

暗い舞台後方中央からブリュンヒルデ登場。事実を知ったグートルーネはジークフリートの後ろを回って下手に退場。途中で思い出したように立ち止まり、舞台前方下手にいるハーゲンのところまで来て、彼の車椅子を押して一緒に退場。ここもやはり無理が感じられるところ。



ブリュンヒルデはパネルの前に立ち、ほぼこの場所を動かずに最期を迎える。動くのはジークフリートの指輪を取りに行く時、火を放つためにパネルの左隅にかがむ時。彼女の独り舞台なので家臣たちが薪を積むこともないし、ここでもグラーネは出て来ないので、序幕のジークフリートの旅立ちのシーンと同じように歌詞が完全に浮いてしまう。炎に飛び込むシーンはパネルに向かって両手を広げてはりつく動作で表され、炎の映像上で黒いシルエットとなって浮かび上がる。


ここでこのリングプロダクション最悪のシーンが!スクリーンに大階段にいる神々とブリュンヒルデの頭上にピストルのようなものが映し出され(ピストルを持つ手は見えない)、神々はこのピストルで射殺されるという、神々の終焉はテレビゲームの画面で表されるのだ。最期に大きな球状のラインゴールドが転がってきて、それに弾が当たって砕け散る…。こんなにアイディア皆無でバカげた、そして観客をバカにしたような演出があるだろうか?!


奥のホリゾントに序幕と同じシルエットが浮かび、パネルはそのまま(パネルを挟んでブリュンヒルデとジークフリートが倒れている)、舞台後方に砕けたラインゴールドの大きな破片(パネルと破片は序幕と同じ回転プレートにのっている)ラインの3人娘が現れて、大喜びで指輪をブリュンヒルデの指から外し、ラインの中に戻っていこうとすると、そこで "Zurück vom Ring!" と飛び出してくるのはアルベリヒ。
一瞬指輪を手にするものの、あっという間に取り返され、ラインゴールドの破片の裏側でラインの3人娘の1人に槍で突き殺される。この時点では破片の裏側だが、プレートが回って正面にくると破片の前に槍に貫かれて倒れているアルベリヒの亡骸がある。このシーンはテトラロジー "Der Ring des Nibelungen" を締めくくるのにふさわしい。

神々の黄昏の演出 5/6(第3幕その1)



舞台前方のスクリーンパネルに水面の映像。その前にジークフリートがスモーキングにえんじ色のネクタイ(緩めてある)、手には背中の十文字を見せるように両手でコートを持って立っている。目を閉じて少し身体を揺らし、水面に漂っているようなイメージ。パネルの後ろにはラインの乙女たちがいつものコレとともに歌っている。


ジークフリートの持つ指輪を取り戻そうと、深紅の長手袋を外しジークフリートのコートを地面に敷いてその上に彼を押し倒し、黒いワンピースを脱いで下着姿の色仕掛けで迫ったり、からかったり脅したりするが効き目なし(まぁ色仕掛けの方は成功する可能性が皆無ではなかったけれど)。
呆れた3人娘はパネルの向こう側(水中)に戻って指輪の呪いについて語るが、ジークフリートは寝転がって脚を組み、能天気に鼻歌でも歌っているような様子。死を暗示されるとジークフリートは膝立ちになり「命も身体も遠くに放り投げてやる」の所で手に持っているコートを背後に(パネルに向かって)投げる。
ブリュンヒルデに話をすることに決めた3人娘は暗転したパネルの向こう側を歌いながら下手に去っていく。



ハーゲン、グンター、家臣たちが登場。ハーゲンとグンターはさっきと同じ衣裳で家臣たちはロングコートを着ている。ジークフリートのスモーキングもそうだが、彼らは森へ狩りに着ているという設定なのにこの格好は不自然。もちろん獲物はでてこない。
ここで注目すべきはハーゲンの車椅子を押しているのがアルベリヒだということ。まるで一心同体である。
喉が渇いたジークフリートに差し出されるのは角の杯ではなく、グンターの上着のポケットから出されるスキットルである。それを「お前(グンター)のと混ぜろ」のところでグンターの頭にふりかけるので、またグンターはバカにされたようなもの。ハンカチで拭いながらスクリーンパネルの左下に寄りかかって座り込みいじけるグンター…。
ジークフリートは「ジークフリート」のストーリーを語る途中にハーゲンから勧められる”思い出し薬”入り飲み物のスキットルはほんの少し迷った後に手で制し、飲むことはない。
その薬を飲まなくてもジークフリートはブリュンヒルデとの関係を思い出して語りつづける。
ジークフリートがパネルの後ろに回ってきたところで彼の背中に槍を突き立てるのはハーゲンとアルベリヒの”2人”!



ハーゲンとグンター、家臣たちは退場し、ジークフリート独りがスクリーンパネルの後ろにとり残される。



スクリーンには後ろの大階段と重なるように明るい横線が何本も入り、その1番下にジークフリートが立っている映像が映し出される(本物のジークフリートの亡骸はパネルの後ろ)。ジークフリートの葬送行進曲とともに映像のジークフリートが残像をのこしながらユラユラと階段を昇っていく。

神々の黄昏の演出 4/6(第2幕)

ジークフリートが一足先に戻って来たシーン

第1幕のギービヒ家のシーンでブラインドが下りていたところに黒いカーテンがひかれていて、その前に花輪とカラフルなリボンのついたメイポールのようなものが6本等間隔で立っている。下手に車椅子に座って眠っているハーゲン、上手にアルベリヒが地面に座って二分された槍を合わせてテープで巻きながら修復している。
この槍でハーゲンの首を絞めるかのような動作で「自分(アルベリヒ)に誓え」と迫り、この槍を息子の手に残して去る。
アルベリヒが今もヴォータンへの憎しみを抱き指輪奪還の野望に燃え、身の自由が利かないハーゲンを文字通り操ろうとする意志がはっきりと表される演出だと思う。
このアルベリヒが常にシナリオの底流に厳然と存在し、ハーゲンは願望達成のための道具に過ぎないという2人の関係の描き方は独特で面白い。
しかしアルベリヒの存在を強調して前面に押し出すためにハーゲンを車椅子に座らせたことで、演出上の制限は厳しいものになっている。



ジークフリートが戻り、婚礼の準備をするというグートルーネを手伝うと言って2人が去る。ハーゲンが家臣を呼ぶと黒いカーテンが上がり、ブラインドの向こう側に例の大階段。その階段上に赤い制服を着た家臣達(男声コーラス)が。途中で小旗を広げて振るが、その小旗に描かれているのはブドウの房。謎だ…。
ブラインドが上がり、下手から幟を持ったり、カゴに入った花びらを撒きながら入ってくる女性の家臣(女声コーラス)に先導されてシルクハットを被り得意満面のグンターが選挙に勝った市会議員のような様子で両手を挙げたり、シルクハットに手をやって軽く会釈したりしながら現れる。
と間もなく先ほどオクトーバーフェストの会場設営をしていたワンピース姿の男子達が風の如くやってきてテーブルと椅子を置き、ブリュンヒルデを連れてきて椅子に座らせた後、また風の如く去っていく。
このシーンもすぐ後ろに大階段があって舞台前面しか使えないので、動きはは左右のみに制限されてしまう。これがギービヒ家の仕様、ということかも知れない。
ここに連れて来られた時のブリュンヒルデの衣裳は濃い紫の長いコート。怒りが燃え上がってそれを脱ぎ捨てると黒のシンプルなドレス。ウェディングドレスから喪服へ急転といったところか。


これはRGの写真
旗色の悪くなったジークフリートが空元気いっぱいで退場する時に、それまで着ていたヨレヨレのコートを椅子の背に置き忘れていく。
ブリュンヒルデが彼の弱点である背中を示すのに、そのコートの背中に大きな黒い十文字を縫いつける。言葉で教えるだけでは足りず「ここを狙え」とダメ押しするかの如くである。それだけ憎しみが深いとも言えようか。

ハーゲン、ブリュンヒルデ、グンターと並んだ三重唱の後、ブリュンヒルデはメイポールを2本引き抜いて倒し(鉄の棒が倒れる大音響!)、テーブルの上のものを払い落とし、椅子を引き倒し、まるで嵐のような勢いで退場。(婚礼の場面の演出はない。)

神々の黄昏の演出 3/6(第1幕その2)



舞台上にハーゲン独りになると上手のベンチに座っていた黒い乳母(えぇ、ずっと動かず無言で座っていました、この人物)が立ち上がってハーゲンに歩み寄る。ボネとヴェールをとると、それはアルベリヒだった8!ハーゲンに近寄ってその頭に触れようとするがハーゲンは煩そうにその手を払いのける。



そんな悪巧みが進行中とも知らずにピンク色の雲の上にでもいる気分のブリュンヒルデの所にヴァルトラウテがやってくる。
舞台後方に大階段があり、その右上の方にジークフリートの第3幕と同じように神々が同じ方向を向いて微動だにせず座っている。このブリュンヒルデの居所のセットは彼女が神性を失ったことと今の彼女のナイーブさをよく示している。
スクリーンパネルの前にルイ16世風の白いテーブルと椅子、テーブルの上にはグラスや皿、プチフールをのせるプレートなどが置かれている。その斜め後ろにこれも白い食器戸棚、ここに先ほどのグラス類をしまうという「平凡な」ことを今のブリュンヒルデは普通にしたりもする。
ブリュンヒルデは登場した時と同じ白いシンプルなドレス、息も絶え絶えに登場するヴァルトラウテの出で立ちは全面にキルトを施したような厚手素材の濃いグレーのドレスに裸の上半身を模した鎧を身に付け、ヴァルキリーの被る羽のついたヘルメットを脇に抱えている。2人の衣裳を見るだけで別々の世界に生きていることが一目瞭然。
結局ヴァルキリーとしての理性を失っているブリュンヒルデを説得できずに去るが、その怒りを帰り際に食器棚をぶち倒すという力技で表現している。当然ものすごい音がして、それと同時にスクリーンパネル全面に炎が映し出される。



そしてジークフリート扮するグンター登場、このシーンが解りづらい。というのもグンター(ニキーチン)がいて、その背後に隠れ頭巾をかざしたジークフリート(ケール)がついてくるという演出なのである。
歌うのはもちろんジークフリート役のケール。ジークフリートが背後にいて歌うだけならまだしも、ブリュンヒルデの肩を押さえて椅子に座らせたり、彼女の指から指輪を奪ったり(グンターは彼女の脚を抱えて動かないようにしている)、またノートゥングを手にとって語ったりするので非常に混乱する。初めて観る人やストーリーを把握していない人は何がなんだか解らなかったのではないだろうか。
そして先ほどヴァルトラウトが倒していった食器棚(背部は黒い布が張られている)がベッドと見なされる。横たわるブリュンヒルデの横で片膝をベッドにのせたグンターがシャツの片肌を脱ぐシーンで幕。(ニキーチンのタトゥーはカバーされている。シャツを腕まくりした時と、カーテンコールの時シャツの襟元から少し覗いていたけれど。)

神々の黄昏の演出 2/6(第1幕その1)

□第1幕□
この写真は2年前の舞台写真なのでグートルーネのヘアスタイルが少し違うし、
グンターも小綺麗な感じがしますナ(笑)。
今年はもっと長い乱れ髪を束ねたようなスタイルだった。

そうこうしている間にギービヒ家3兄弟妹が登場。序幕で少年と乳母が退場していったコースを逆に辿って3人一緒にやってくる。ハーゲンの座る車椅子をグートルーネが押し、グンターは片手に持った新聞でテープを避けて車椅子がスムーズに通れるようにと露払いのようなことをしながら出てくる。
このグンターのスーツ姿が酷い…。ニキーチンのお腹が出過ぎとかいうことはさておき(演技が進むにつれて裾がビロビロと出てくるし!)、深青緑色で70年代風なのだがはっきりそうとも言い切れない古びたスーツに似た色の少し幅広めのネクタイを妙に短く結んでいる。涙モノの小道具は薄い茶色の色付きメガネだ。斜陽(それもかなり日没寸前)のチンピラ風ですナ。髪もセットされてないようなスタイルでシャビー感に磨きをかけている…。
ハーゲンはグレーの三つ揃いで明るめのオレンジ色っぽいネクタイで彼がいちばん普通の格好をしている。策士は自らそれとは見せないのが常道ですね。
グートルーネは光の加減によって緑色に反射するようなベルベット風の深紅のスーツに胸元がVに開いた白いブラウス。髪はキッチリと夜会巻き、この衣裳に何故と問いたくなるディアデムをしている。妙にコワンセな感じのするスーツ姿で、婚期を逸した良家の娘と自覚しつつもその事実を受け入れたくない、という複雑な気持ちを視覚的によく表していると見ました。
このギービヒ家のシーンは退屈だ。ブラインドが下りてきて後ろのテーブルとベンチが並ぶ場所と区切られ、動ける場所が舞台の手前のみと制限されるため、3人が横に並んで時々行ったり来たりしながらああでもないこうでもないと歌い続ける。
車椅子に座ったハーゲンが下手にいてその後ろにベンチが2台、上手にはテーブルとベンチが置かれている。その手前のベンチの右端に黒服姿のハーゲンの乳母だったらしき人物が座っている(上の写真)。

第2場になってやっとジークフリートが登場し、まんまと計略にひっかかってグートルーネが持ってきた(巨大なアルザス風のグラスを”背後に隠すようにして”持ってくるのが謎)薬入りの飲み物を飲む。
ここはシナリオに大いに疑問がわくところですゾ!ラインの黄金からここまで延々何時間も観てきて、ストーリー大転換のきっかけになる浮気は単なる「忘却の秘薬」のせいですか?!
ちょっと安直すぎやしませんか?!(ではどうしろと?と問われても、ここでまた新たに面倒なモチーフが出てきて作品が長くなっても困るので何とも答えられないけれども。) 
それはさておき、ここで何が可笑しいって兄弟の杯を交わすシーン。
アルコールが入ったからか異様にハイなジークフリートは、やおらテーブルにあったナイフをとって自分の左袖をまくりあげて腕を切りつける。傍らで仰天しているグンターの頭を掴むと自分の腕に押し付け、傷から流れる血を口にさせるというおどろくべき荒技に出るのだ!それもこどもの遊びのような陽気さで!
そして呆然としているグンターの腕を切って自分自身も彼の血を口にし「血で結んだ兄弟の絆」が成立。
血を何滴かたらしたワインを飲むという”普通の”儀式とはかけ離れた演出でここは笑える。そしてこのハイな状態のまま、神経質にハンカチで傷口を拭ったり押さえたりしながらキョトキョトしているグンターを追い立てるようにしてブリュンヒルデを攫いに出発。
このようにグンターはギービヒ家の長としての意識がある時は胸を反らせて威を張るが、それ以外は本来の優柔不断で自らの意思で決定する事を知らない人物としてうまく演出されている。そのハーゲンの曖昧な人物像をニキーチンが非常に巧く表現していて見応えがあった。

2013/08/05

神々の黄昏の演出 1/6(序幕)


舞台手前上手にブリュンヒルデ、ジークフリート、ヴォータンの持ち物と言える楯、剣、二分された槍などが置かれている。車椅子に座った少年に乳母と思しき黒づくめの女性(ボネを被り顔もヴェールで覆っている)が剣を渡すが少年はそれを彼女に返す。次に彼女は地球儀らしきボールを渡し、車椅子を押してぐるりと舞台を3/4周して退場。
□序幕□

ホリゾントには後ろからオレンジ色のライトで町のシルエットがボンヤリと黒く映っている。スクリーンとして使われるグリル上の縦長の大きなパネル、その横にテーブルと椅子が2脚(1脚は倒れている)。舞台手前下手に黒いシートのかかった何かがある。
3人のノルンの舞台上の演技が何を示しているのかほとんど解らない。舞台上の回転する巨大な円の内側で、黒いワンピースに黒のパンプスに黒のバッグ、黒のサングラスという黒づくめの装い(お揃いではない)で、椅子にぶつかったり、両手を探るような様子で前に出して歩いたりと、終始盲目と思われる立ち居振る舞い。
これは混乱によって見通しがきかなくなっていることを示すのだろうが、アルベリヒがこれからどうなるかという問いに続く不透明な未来について語る場面なら理解できるが、これまで起きたことを語るのに合った演出ではない。
そして運命の綱はなく、それが切れるのは手をつないで並んだ3人が手を離してバラバラに倒れることで示されるが、中学生の創作ダンスレベルではないか…。
そしてこの3人(おそらく舞台袖で交代しているが、装いはノルンのもの)が舞台奥に立ったままジークフリートの旅立ちとなり、その場でラインの乙女の衣裳(ラインの黄金で着ていたアレ)に着替えるのが不思議。着替えの途中で旅立ちのジークフリートに手を振ったりもする。
このジークフリートの旅立ちの部分がなんともシャビーで唖然とする。
というのはグラーネがたてがみ一本たりとも出て来ず、旅立ちの足は緑色のプラスチック製と思われる手漕ぎボートなのである!組み立てたオールを振りかざして「その指輪を得るためにドラゴンを倒した」などと歌われても、困惑するよりほかない…。
そればかりかブリュンヒルデがオールで漕ぐ真似をしながら乗っているボートにロープを結わえ付けて引っぱったりするのだ(唖然)。そして彼女が下りた後のそのボートを引っぱり回して退場→旅立ち、ということになる。

そしてジークフリートのラインへの旅の音楽の間で舞台上で繰り広げられるのはオクトーバーフェストか何かの準備でしょうかね。
パネルに水面が投影され、その後ろでノルン転じてラインの乙女がちょっとしたコレを披露している間、あのテーブルとベンチを持ってきて並べて踊る赤いワンピースに緑のタブリエで女装した10人の男子って何?テーブルとベンチを並べ終わると上から色とりどりのメタリックカラーのリボンがサラサラサラサラーッという音とともに何十本(何百本)も下りてきて、赤いワンピース姿の彼らがスカートをまくってペチコートを見せながら踊るのがちっとも可愛くない。可愛くないどころはグロテスクだ。
どうして彼らが女装しなきゃいけないのか、ジークフリートでファフナーのシーンで出てくる裸体男子に増して謎は深まるばかり。
何で、ホント、どうしてなの?教えて欲しい。