2014/04/29

Tristan und Isolde / トリスタンとイゾルデ ②


本当は前回(金曜日)の公演も観たかったが既にプレイエルでのマーラーNo.9の席をとってあったので今日が2回目(次回が最終公演)のトリスタンとイゾルデ。
初日から3週間、その間にソリストのディレクションのおさらいがあったのだろうか、モヤモヤしていた動きが大きくはっきりとしたように見える。それでもやっぱりメロートがトリスタンを刺すシーン(イゾルデに右腕、マルケ王に左腕を抱えられているトリスタンをメロートが背後から刺す)の意味は理解できない。

第1幕でのウルマナの圧倒的な迫力。Fluch dir, Verruchter! Fluch deinem Haupt! Rache! Tod! Tod uns beiden! の部分、イゾルデの怒りで舞台の空間がビリビリと膨張してバルコンで圧迫感を感じるような歌唱。ラ・ジョコンダの最終日の素晴らしいパフォーマンスを思い出して「まさか今日が最終日と勘違いしてないでしょうね?」と疑ってしまったほど。

初日にはサービスミニマムだったRDSが「あのー、同じテノールの方ですか?」と尋ねたくなるほど、別人のように良くなっていた。ノーブルに響く声にしなやかな芯があってトリスタンのシュヴァリエとしての心持ちが伝わってくるし、マルケ王への忠誠心とイゾルデへの愛の間で悩み疲れた様子もうかがえる。
彼の声には結果的にシュヴァリエとしての忠誠心に逆らってイゾルデとの愛を選んだ歓びだけではなく、それを悔やむような、心の内では常に涙しているような、一種の弱さを感じさせて胸に迫るものがある。それが夜の闇を求め、死を思い極めるトリスタンのキャラクターに深みを与えていると感じた。
このあたりは初日にはまったく見えなかったところなので今回発見できて嬉しい。
初日1回だけしか観ずにいたら「やっぱりトリスタンとイゾルデって金太郎飴オペラだわー」で終わっていただろう。

初日にブレスリクを聴けたのはとてもラッキーだったと思う。新しい代役氏は声に魅力がなくて残念。この役の最初の歌唱がが美しいとサーッと海上の雰囲気が広がるのだが、代役氏は一生懸命に(いや歌いづらそうな歌を音楽なしで歌わなきゃならないので難しいのだとは思うが)ただ歌っていただけだったし。

オーケストラはピットに入れておくのが惜しいほど、透明な煌めきのある響きとスケールの大きなうねり。それぞれのパートの音が絡み撚り合うが、聞きづらく縺れることがない。休符のとり方で一瞬ハッとさせるのはリングでもそうだったジョルダンだが、テンポやリズムが変わってもテンションは切れず、聴く方の集中力をそらさないので最後の音に行きつくまでがあっという間だ。
透明な水を思わせる弦の音がヴィデオとよくマッチする。その水は絶えず寄せては返す波となってさまざまな場面で浮き上がる。そのみずみずしさの中でチェロにほんの少し乾いた音色が混ざって寂寥感を感じられるのが印象的。寂寥感につながる荒涼とした風景、常に底にあるのは生を諦めたトリスタンの心か。
第2幕の前奏曲、再会の喜びにあふれるメロディーによりそって走る暗い陰が時々浮き島のように姿を表してこの喜びと切り離すことのできない運命を感じさせる。ここで2人の行く末をはっきりと示して語るオーケストラ(と言うかこれはワグナーのパーティションのなせる技なわけだけれども)!

でも第2幕のTIのデュオの部分(半分まではいかないが1/3くらいまで)はオケが鳴らし過ぎじゃないかと気になった。前回はパーテールの中央後方で聴いていてそれほど感じなかったが、バルコン1列目少しジャルダン側(No.33)ではオケの音が凄まじい。この部分はソリスト2人とも抑え気味のようなので余計に気になる。弱音の部分の美しさなどため息モノなんだから、あそこまで鳴らさなくても(特にソリストが歌っているときは)いいんじゃないかと思うのよねぇ。オケがガーンと行きたい気持ちは解らないでもないが

とにかくオケが雄弁に語るので、ソリストは存在感のあるパフォーマンスをみせないと太刀打ちするのは難しい。さもないと初日のRDSのように何の印象も残せないどころか「色褪せたパフォーマンス」の烙印をおされてしまう。
本当にオーケストラはこの3年ほどで驚くべき飛躍。今も思い出すのはどうしようもなく退屈なフィガロの結婚や全然まとまりのないロメオとジュリエット(バレエ/ヌレエフ版)…。当時、こんなに素晴らしいパフォーマンスをONPで聴けるとは到底想像できなかった。

*最近気づいたけれど、第3幕でトリスタンが歌う …erjag' ich mir heut Isolden!  Heia, mein Blut! Lustig nun fliesse! あたりの音楽はエレクトラが狂喜して踊るシーンの音楽と似ている。

*階段を降りながらイゾルデの愛の死を口ずさんでいるオジサンが何人もいて微笑ましかった(笑)。




DIETMAR KERSCHBAUM  Ein Hirt / Ein Junger Seemann

PREMIER BALCON 1-33

2014/04/26

I Capuleti e i Montecchi / Les Capulet et les Montaigu / カプレーティとモンテッキ

カプレーティとモンテッキは作品として「お見事、大傑作!」というものではないと思うが、高原の朝霧のような爽やかさで悲劇を語って違和感のないのにはただただ感心させられた。ポンキエッリのラ・ジョコンダもそうだが、ベリーニのほうがさらに軽やか。あぁベリーニがあと20年、いや15年でも長生きしていたら…。
ソリストは皆粒ぞろいでほぼ危なげなくバランスの良いいい歌唱を聴かせてくれた。テバルド役の声が重暗すぎたように感じられて、これはもう少し軽めの明るい声でないとカペッリオとロレンツォの声の間で際立たない。
カンパネッラの指揮が見事で今更ながら去年のチェネレントラを彼の指揮で聴きたかったと思った。大きなクレッシェンドの中に含まれる複数のクレッシェンドや滑らかに流れるメロディーのなかの浮き島のようなアクセントのつけ方など職人技だなあと…。

カーセンのスタイリッシュな演出とセノグラフィ(大きなパネルを並べた可動式の壁といつも通りライトを効果的に使った空間演出)、それに良く合ったクラシックな衣裳と視覚的にも楽しめる。ソリストとコーラスのディレクションも的確で上質の芝居を観ているようなのだが…ロメオ役のデエが相変わらず何をやっても同じ動きなのでそこで視線がひっかかる。歌唱はセストの時と比べ物にならないくらい良いのだから惜しい。


BRUNO CAMPANELLA  Direction musicale
ROBERT CARSEN  Mise en scène
Réalisée par ISABELLE CARDIN
MICHAEL LEVINE  Décors et costumes
DAVY CUNNINGHAM  Lumières
ALESSANDRO DI STEFANO  Chef de Choeur
BERNARD CHABIN  Maître d'armes

PAUL GAY  Capellio
EKATERINA SIURINA  Giulietta
KARINE DESHAYES  Romeo
CHARLES CASTRONOVO  Tebaldo
NAHUEL DI PIERRO  Lorenzo



PARTERRE 5 24-26

2014/04/21

Parsifal / パルジファル @Wiener Staasoper


流れる音楽を両腕で大切に抱いているようなウェルザーメストの指揮。
その指揮に整ったオーケストラの音が軽やかに従っていく(もったいぶった重々しさやこれ見よがしなドライブ感は皆無)。昨日と同じオペラ座に属しているオーケストラとは思えない、実際のところ同じメンバーではないのかもしれないが、指揮者とオーケストラのコンプリシテが感じられる。
音がスッとたち昇ると同時にサーッとホール全体に広がる、というよりホール内にとどまらずに水の流れのように素直に広がっていく印象を受ける。
青みがかった澄んだ銀色を思わせる音色。コントラバスの音までがハッとするほど美しく聞こえ、ひどく感心してしまった。
パルジファルにはもうすこしドロリとした感じや暗い陰のようなニュアンスが濃くても良いかなと思うが、それをしたらウェルザーメストとオーケストラの作り上げる音楽が失われてしまうだろう。盛り上げ方やテンポのとり方など舞台と無理なくあっていて(音楽を舞台に無理強いすることがない)流石だなと感じる。作品のラインを無理に歪めず破綻させないのが彼らのスタイルなのだろう。

まずパルジファルのボータ。今更丸過ぎるなどと言っても仕方ないけれど、METのカウフマンのDVDを観た後にはツラいものがある。第3幕の衣裳をつけると上半身はまるで黒いカナブンのようで、ドン・カルロのサルトーリを思い出してしまった。あれでは第2幕で花の乙女たちが「まぁ♡」なんて誘惑しませんって(笑)。ま、それはさておき、彼はもうパルジファルの場数を多く踏んで慣れちゃっているんでしょうかね。毎回出だしこそ良いものの、すぐに歌い流すような歌唱になってしまってあまり感心できない。これでは感情も、ストーリーさえも聴く側に伝わらない。例えば第2幕でアンフォルタスの傷に思い至って自分の「ここ、ここが!(血を流している)」というところがあるが、「どこなのよ?」「で、そこが何なの?」と尋ねたくなるような歌い方なのだ。
イノセントな愚か者が共苦に開眼して救済者への方向性が表れるという作品のターニングポイントとなる最も重要なシーンなのに、とてもじゃないがそのようなシーンを歌っているようには見えない。
他のシーンも大体同じようなことなのであの体型以外の印象が薄いなんて、パワーのある良い声を持っているのだから、もったいない。

グルネマンツのローズ。カプリッチオやシュヴァリエ・ア・ラ・ローズのコミックな役で大いに楽しませてくれた彼がどのようなグルネマンツになるか楽しみだったが、期待に反して彼のパフォーマンスはあまり納得のいくものではなかった。
というのは、まずキャラクター的に聖杯守護のシュヴァリエとしてはやはり俗っぽさが過ぎる感じがする。登場シーンが長椅子に緊張感なく横になっていることを見ると演出側の要求なのだろうが、それがローズのキャラクターと相まってtoo muchなことになってしまったのではないか。

第2幕では登場しないとはいえ第1幕と第3幕でのグルネマンツはまるで主役のように歌い続けるから、パワーとそれを持続するエネルギーが必要。今のローズは体力不足なのではないだろうか。第1幕では安定した歌唱だったが、第3幕になると明らかに疲れが見え、フラゼはブツ切りの上、ブレスがギリギリなのか終わりを投げつけるように歌っていて聞きづらいし、グルネマンツはこういう歌い方の役柄ではないと思う…。この日は風邪気味とかで調子が悪かったのかもしれない。というのも第3幕で頻繁に舞台と袖を行ったり来たりしていたから。あの意味のない往復は演出だとはちょっと考えられない。

アンフォルタスのゲルネはアンフォルタス役によくあったノーブルな響きの声。その声にひと刷毛セクシーな色が混ざっているので怪我で弱っている風情に気の毒さが増すというおまけつき。やっぱりソリストと役の組み合わせ(相性)って大事だわー。演技が少し元気過ぎる(もう死んじゃいたいほど苦しんでいるのに)のが気になるけれど、それは演出側の要求かも知れないし他のソリストで観ていないので何とも言いがたい。

クンドリーのマイヤー、ソリストのなかでは歌唱、演技ともに際立っていて引き込まれる。ソバージュではなく、救いを求めてあてもなく彷徨うひとりの人間としての表現に無理がない。作品のキーパーソンだがちょっと変わったキャラクターの役だし、奇を衒うとまったく嘘っぽくなると言うか後から取ってつけたような役に見えてしまうが、彼女の場合それがないどころかさらに真実味が加わる(これはエレクトラの時も感じた)。それから場面ごとの声のバランスがとても理にかなっているので、ストーリーに与える音楽的な効果が増すのだと思った。
それから、バスティーユの箱だと彼女の良さが2割減だったなと今回理解した。もしかしたら他のソリストでも多少そういうことがあるのかも知れない…。

(演出について書こうかどうしようかは迷っているところ。というのも今思い返してみても「ここはよかったな」と感じられるところがないので。)

Dirigent    Franz Welser-Möst
Regie    Christine Mielitz

Amfortas    Matthias Goerne
Titurel    Andreas Hörl
Gurnemanz    Peter Rose
Parsifal    Johan Botha
Klingsor    Boaz Daniel
Kundry    Waltraud Meier


Mittelloge 1 6-7

パルジファルの呪い、またはミーリッツの演出

パルジファルを聴き終わると、それが録音であってもなんとはなしに魂が軽くなったような気分がする。ウェルザー・メスト率いるウィーンオペラであれば、その気分はいかばかりであろうかと席を手配してからずっと心待ちにしていた今回のパルジファル。
その期待はミーッリッツの演出にすべてぶち壊された。えぇ、救済されるどころか呪いをかけられたようで怒りを感じましたよ!

これまでも意味不明だったり「演出としてこれはありえない」と言わざるをえないような演出も観てきたけれども、観客の視覚にダメージを与えるような演出は見たことがない。

それは第3幕で洗礼と聖金曜日の奇蹟のシーンの直前、舞台上から大きな四角いパネルが降りてくる。それには縦に8個、横に10個の大きなライトがつけられていて、舞台空間の中央でパネルの降下が止まるとその80個のライトが一斉に点灯してホール中を照らす。その光の強烈なことといったらまるで太陽を80個見るのと同じ位だ。私はミッテルロッジの1列目中央という願ってもない良い席だったが、パネルはその真正面にあり、もちろん光が眩しくて何も見えないし(周囲の人もみな目を手で覆っていた)80個のライトの熱さまで感じるというすごさで、落ちついてオペラを楽しむどころの話ではない。

そしてその光の攻撃はその場面だけにとどまらないのだ!!!
ライトが消えて熱も引き、パネルが上がっていっても目がくらんでいて舞台などよく見えない。ようやく目が暗さに慣れたと思ったら、今度はまばたきをする度に80個の黒い点が並んだ長方形が3つほど、ライトの残像が見えるわけですよ!!!
こうなってしまうともう全然舞台に集中できず「えー、どうして、なんで?」と呆然としているうちに私がいちばん愛する、聖金曜日の奇蹟をグルネマンツが歌い上げるシーンなどもスルスルと過ぎてしまい、やっと残像が消えたのはパルジファルがアンフォルタスの傷を癒すシーンだった…。

こんなことって、ありえない。
絶対許せませんとも!今こうやって思い出して書いてみても黒い怒りがフツフツとわいてくる。次に素晴らしいパルジファルを観るまで、この呪いは解けないにちがいない


凶器のライトパネル、午前中にバックステージを見学した時に撮った写真に写っていた!



2014/04/20

Lohengrin / ローエングリン @Wiener Staatsoper

透けるカーテンに描かれた絵。この絵が額に入れられてセットの正面の壁に掛かっている。

直前にホモキとドゥ・ビリーの間でカットを巡るいざこざがあり、フォークトはホモキの側についてメイヤーもドゥ・ビリーを擁護しなかったとかで指揮者の重要性をないがしろにされたと感じたドゥ・ビリーは指揮棒を投げ(実際に当事者達から話を聞いたわけではないので真相は分からないけれど私はこのように理解した)、代わりに指揮台に昇ったのはフランク、という曰く付きとなったウィーンの新プロダクション。

まずはフォークト、まさに聴き時! これまでも極上のシャンパーニュのように素晴らしい歌唱だったけれど、声にブロンズのような輝きが加わってシュヴァリエ・モンラッシェのような骨格のしっかりした白ワインのイメージに変化してきた気がする。無茶をせずに着実に自分の声を進化させているのだろう。その声もキャラクターもフィジックもローエングリンを歌うために生まれてきたソリストのように感じられるし、実際何回も歌っているのだろうけれど(今回は新プロダクションということもあるかもしれない)慣れた役を歌い流すところがないのがとても良い印象を残す。これは翌日ボータのパルジファルを聴いてその感をさらに強くした。

エルザ役のニュルンドは先日のRDSのパフォーマンスを思い出させる。全く色がなく影が薄いと言うか、歌唱からも演技からもあまり伝わってくるものがない。周りに役者がそろっているだけに全体のパフォーマンスとして見た時に彼女の部分だけ凹んだ印象を持つ。

一方テルラムント役のコッホが歌唱、演技とも迫真のパフォーマンス。密度のある声のパワーもプロジェクションも抜群で揺るぎない歌唱に加え、ブリュットで野卑で強がっているが、オルトルートに操られている弱さも合わせて巧く演じきっている。隅から隅まで盤石にconvaincant!

かなり期待していたのに”あれー???”と思ったのは、フランク指揮のオーケストラ。彼はあれではオケもソリストもコーラスも率いていないと言って言い過ぎではない。オケは勝手に演奏しているようでそれぞれのパートのバランスが良くないし、コーラスとはズレることが多い。そういうわけでオケはまとまりに欠け、予想よりも随分良くなかったが(トランペットの凄いcouacがあって思わず夫と顔を見合わせてしまった)、パックの休暇でエキストラが多いとかそういうことだろうか?みずみずしく聞こえるのかと想像していたホールの響きはかなりsecな印象だったが、これはこれでいいなと感じた。

そして演出についてきづいたことなど。
前奏曲の間、絵が描かれた薄いカーテンの後ろでこれまでのストーリーが簡単に演じられる。演じるのはいいが大勢の人々が出てくるので足音がうるさくて美しい前奏曲の邪魔になること甚だしい。ここは別の方法を考えて欲しいところ。
ソリストとコーラスへのディレクションは全体的に的確で分かりやすい。
粗野でいまひとつ柄のよくないブラバントの人々とソフィスティケートされて控えめなザクセンの人々の明らかな違いがチロルの民族衣裳風の服装とその振る舞いによって示される。最初のうちは水と油のように馴染まない人々。テルラムントなんて非常に柄の悪いうえに野卑なノーブルさなど一片もない男に描かれている。
第3幕第3場がビアホールなのには笑ってしまった。第1幕のよそよそしさはどこへやら、みんな一緒に木の大きなジョッキを持って歌い、一斉に轟音を立てて木のテーブルにそのジョッキを置く(遅れた人がいたね)。

フォークロアな(チロル風?)の衣裳
そして場面ごとに弱い立場にあるもの(例えば登場時のエルザ、ローエングリン、決闘に負けたテルラムント、オルトルート)はしっかりした布地で作られた上着やスカート、ショートパンツなど身につけず、白いコットンの下着のような衣裳をつけている。
箱の奥の左右に開いた出入り口、箱の手前の左右にドアがあり、奥の2つは正式な出入り口、手前のドアは何か隠し事が合ったりする場合の訳ありな出入り口と、はっきりと区別されている。

ローエングリンとテルラムントの決闘で勝敗が決まるシーンはもたついていて説得力に欠ける。ああいう指示がでているのか、演じる方が下手なのかちょっと謎。

第1幕でエルザが白鳥の首を片手で持ってぶら下げるように持ち歩くことがあり、そのぞんざいな扱いに非常に違和感がある。またこの白鳥、頭部はリアルなんだけど全体的に小さくて陶器の置き物みたいなんだなあ…。ゼラニウムの鉢を入れるポットじゃないんだからもうちょっと何とかした方がよかったんじゃないかと思う。

ローエングリンが登場する場面では上からの強い光に惑わされた人々が渦をまき、それが収まって人々が引くと中央に彼がうずくまるように横たわっている。ピクピク動いたりするのでこれはあのスカラの登場シーンをまるっきり真似したと思われても仕方ないだろう。人の渦は面白いアイディアだし、登場シーンはスカラとは違った方が良かったのではないかしら。ちなみに最後の帰って行くシーンも同じように人々の渦の中に消えていき、人々が引くと今度はゴットフリートが最初のローエングリンと同じ体勢でそこにいる、という具合。

セノグラフィがずっと同じ木箱(他に例えようがない)に、IKEAで売っているような12個の木のテーブルと多くの椅子だけなのではっきり言って途中で飽きた(笑)。が、うまく熟成していく可能性を秘めた新プロダクションのように感じられた。

Dirigent   Mikko Franck
Regie   Andreas Homoki
Ausstattung   Wolfgang Gussmann
Licht   Franck Evin
Dramaturgie   Werner Hintze
Chorleitung   Thomas Lang 


Heinrich der Vogler   Günther Groissböck
Lohengrin   Klaus Florian Vogt
Elsa von Brabant   Camila Nylund
Friedrich von Telramund   Wolfgang Koch
Ortrud   Michaela Matens
Heerrufer   Detlef Roth

Mittelloge 2 17-18



2014/04/15

Othello / オテロ @TCE

© Vincent Pontet

ジョン・オズボーンという人はポップスの歌手ですか?タイトルロール(いちおう)なのに、声は出ないし音程も正しい音を探し探し歌っているようで危ういったらない。パフォーマンスからするとこれは完全に「(バルトリの)デズデモーナ」という作品になる。
オテロは1幕はヘロヘロだったものの2幕3幕と持ち直して高音もパーンとプロジェクトされるようになったが、それでも自在に歌っているようには聞こえなかったし、7割位の出来だったのではないだろうか。声自体がザラザラと荒れていたので、ハードスケジュールの公演疲れが蓄積してきたのかなとも想像。
TCEのオペラはいつも日程がきついので、ソリストは大丈夫なのかなあと心配するのだ。バルトリも第三幕のアジリタが少し甘くなっていたが(しかしそれでも魅了される歌唱だ!)、リサイタルやコンサートではなくオペラセニックで彼女を観て聴けたのがなんといっても収穫。
それからバリー・バンクス。イアーゴにぴったりのキャラクター(演技巧い)、ソリッドな歌唱でピカリと光っていた。こういう歌い手好きだなー。
ロドリゴ役のエドガルド・ロチャ(ロシャ?)が大健闘。場面ごとにしっかりと歌い方を変えてくるし、ニュアンスのつけかたも巧い。声もロドリゴのキャラクターによく合っていてすごくいいキャスティングと思った。ただひとつ、アジリタがダメなんだなー。これはロッシーニ歌いとしてはかなりマイナスポイントでしょう。残念!このままではもったいないですゾ。
酷い黒点は指揮のスピノージとオケ(アンサンブル・マテウス)。音を細切れにアシェして個々の音にアクセントをつければロッシーニの音楽出来上がりというわけではない。前に進んでるのか立ち止まってるのか不明な指揮と、のっぺり平坦な音をétalerする弦、壊滅的な技術のホルンとクラリネット。そして全体が象のダンスのように重い!重過ぎるよ!

オテロというとまずヴェルディだが、ロッシーニのオテロも美しいアリアをもった良い作品だと思う。もっと上演の機会があればいいのに。

TCEのプログラムは5€も出してコレですか?みたいなものだが、このオテロとタンクレディはちゃんと対訳リヴレのついたプログラムに練習風景の写真集がついて10€というものだった。ロッシーニフェスティバルの公演分だけかしら。これからもこのスタイルで続けてくれればいいな。

Jean-Christophe Spinosi direction
Moshe Leiser, Patrice Caurier mise en scène
Christian Fenouillat décors
Agostino Cavalca costumes
Christophe Forey lumières

John Osborn Otello
Cecilia Bartoli Desdemona
Edgardo Rocha Rodrigo
Barry Banks Iago
Peter Kalman Elmiro
Liliana Nikiteanu Emilia
Nicola Pamio Le Doge
Enguerrand De Hys Un gondolier

Ensemble Matheus
Chœur du Théâtre des Champs-Elysées



2014/04/12

L'Italiana in Algeri / アルジェのイタリア女②

今夜のアルジェのイタリア女の舞台を観て思った。初日の「いかにも初日という感じのパフォーマンス」は、あれが初日だからではなくて、この公演のレベルなんだと。コミックで笑えて楽しいけれど、セルバンの謎な演出はどこまでも謎のままだし、コレグラフィやセノグラフィでリミット悪趣味だなと感じた部分はリミットではなく踏み越えているし、シラグーサ以外は歌唱で惹きつけるソリストがいない。

アブラハミヤンは声と歌い方がモッタリしていて軽快さがなくロッシーニ歌いではないと思う。彼女はキャラクター的にも元気の良いイザベラには向いていないんじゃないか。ジュリオ・チェーザレでコーネリアを歌った時の方が彼女の良さが充分に発揮されていた。
歌唱的にいちばん拍子抜けしたのはダルカンジェロ。アジリタになると声が空っぽになるというか、何も入っていないタッパーウェアを振っているような感じ。フォルテでバーンと出す声はいいのに…。加えて機敏さもなくて、これじゃロッシーニを歌うには難でしょう。コメディアンとしてはこの公演の座長クラスに面白いんだけど。
あとあれだ、いつも我関せずみたいな印象で求心力が感じられないフリッツァ。何回聴いても彼の指揮は好きになれない。

それからアザレッティがエルヴィーラだったが(確か前回も)、H&Aで素晴らしいラムールだった彼女がこの演出でエルヴィーラというのはなんだかもったいないような気がした。


昨夜ガルニエに、女性は黒のベルベットのロングドレス、男性は燕尾服に白いジレ&蝶ネクタイおまけに白い手袋を持つといういでたちのカップルが何組かいて驚いた。ONPでその服装なのはジョルダンくらいだからねーw。

Orchestra 251-253

2014/04/08

Tristan und Isolde / トリスタンとイゾルデ (Première) ① @Opéra Bastille

©Charles Duprat/ONP


羊飼いと水夫、ブレスリクが歌うということは…マルケ王はゼーリヒだし(これは元から)、魔笛コンビだわと思ったが、指揮はジョルダンなので今も公演が続いている魔笛トリオとなった初日のトリスタンとイゾルデ。ここでもブレスリクが聴けるとは思ってもいなかった幸運。

実はトリスタンとイゾルデ、どこに狙いを定めていいのか判らないし、どこを切っても同じ金太郎飴みたいなオペラだという印象を拭いきれない。いざ、モルフェの腕の中へ…!という気分でバスティーユへ向かった。
このトリスタンとイゾルデは先日亡くなったジェラール・モルティエの遺産。開演前にニコラ・ジョエルが追悼の辞を述べ、1分間の黙祷があった。

オケbyジョルダン、流麗でみずみずしいのは良いが、もう少しピリッとしたところがあればいいのに(第1幕直後のツイート)。あとアレだ、色気が足りないと思う。ちょっと真面目過ぎる感じなので(ひどい言い方をすれば、ラジオ体操のようなリズムで至極健康的に聞こえる)、もっと危うい、もっと刹那的な雰囲気を漂わせないとトリスタンとイゾルデにならない…!

ヴィオラの不思議ヴィデオ…私が困ったのはまず第1幕で顔を水につけるところで息苦しさを感じること、次に第2幕、アップでノイズが多くて何だかよく分からないものが際限なくモゾモゾ動く映像で「これ何だろう?」と気が散ってしまったこと。でも第三幕の水と火のシーンや逆回しで昇天していくイメージは音楽ととけあうようで本当に美しい。

マルケ王が愛していたのはトリスタンだったのか!!!!!こういう解釈をした演出は他にもあるのかしら?確かにリヴレを読むとトリスタンがマルケ王の恋人だったとしても全くおかしくない台詞であることが分かる。
ゼーリヒの驚愕と悲哀がこもった歌唱が素晴らしくてギューンとひきこまれ、”Mir dies?”の後は呆然としてしまうほど。

一方ディーンスミスのキャラクターなし感は特筆すべき。第3幕に備えて体力温存かと思いきや、残念なことに結局サービスミニマムに終わった。ただただパーティションをさらっていただけの印象。彼のパフォーマンスには力強さもエモーションもなかった。
それにくらべてウルマナの見事なこと!多分昨夏のプロムスでイゾルデを歌った時より調子がいい。最高音の方はちょっと無理矢理な感じがするけれど中音から高音にかけてのテシチュールは、イゾルデって実際こういう声だったんだワと納得してしまうような美しさ。トリスタンとの乖離が大きく、デュオとして絡み合って伝わってくるものがほとんどないのは残念。

歌唱でしっかり演じていたのがクルヴェナルのシュメッケンベッハー。第1幕ではイゾルデとブランゲーネを見下す粗野な面を、第3幕では主(かつ友)であるトリスタンを思い、心配し、焦る様子を歌唱だけであれだけ表せるんだなあと。

そしてブランゲーネのヤニナ・ベヒレの温かみのある声はイゾルデを優しく抱くように響いてイゾルデの侍女というより乳母のような印象を持った。第2幕の見張りの歌の美しさは月の映像とマッチして素晴らしい。これを左側のギャルリーで歌うのが空間の広がりを与えるとともに舞台上の2人の濃密さを増すように感じられる。
他にも第1幕では水夫のコーラスは右側ギャルリー後ろの廊下に、マルケ王登場時のコーラスはパーテール後ろの通路に(これをほぼ中央で聴いたのでものすごい爆音だった!)、第3幕の羊飼いやコールアングレなどもギャルリーを使っていた。

ソリストのディレクションはあってないようなもので、コンサートバージョンのように見えるこの演出で、ソリスト達は歌唱でどこまで役者になれるかの力量も試されていた感じがする。このために少し気になったのが、ソリスト達が曖昧な動きをする中でゼーリヒの演技が際立ってはっきりしていること。いい意味でアクセントになったと見ることもできるが、あれ以上際立つと過剰になってしまうだろう。

オケは第2幕第3幕とすすむにつれて、ラジオ体操感は消えて陶酔感のようなものが現れてきた。特に第3幕の前奏曲は「こんな音楽に誘われたらそりゃ夜の世界に行っちゃいたくなるわー」と思わせる。これから公演回数が進むにしたがってどんな風に熟していくかとても楽しみ。
いちばん拍手が大きかったのがジョルダン、次点がゼーリヒとウルマナ。演出グループから2人出てきたけどブーイングだった。このプロダクションはもう4回目なのに何故今更ブーイングするのか謎…。
カーテンコールが終わって外に出たらもう23時30分だった。久々の長丁場でしたな。

PHILIPPE JORDAN  Direction musicale
PETER SELLARS  Mise en scène
BILL VIOLA  Création vidéo
MARTIN PAKLEDINAZ  Costumes
JAMES F. INGALLS  Eclairages

ROBERT DEAN SMITH  Tristan
FRANZ-JOSEF SELIG  König Marke
VIOLETA URMANA  Isolde
JOCHEN SCHMECKENBECHER  Kurwenal
JANINA BAECHLE  Brangäne
RAIMUND NOLTE  Melot
PAVOL BRESLIK  Ein Hirt / Ein Junger Seemann
PIOTR KUMON  Ein Steuermann