2013/12/10

Dialogues des Carmélites / カルメル会修道女達の対話 @TCE


"Qui mesure ne donne pas" / "J'aime la nuit autant que le jour"

ピオがキャンセルとは
ジェネラルで演技はしたもののまったく歌わなかった(コーラスの女性が代わりに歌ったらしい)のは本当に調子が悪かったのだ。
しかし代役に立ったのはA-C Gilletとは確かにRemplaçante de luxe。彼女は前日の午後パリに来てすぐ音楽面の準備を、当日演技の準備をして「ほぼ完璧に」仕上がっています、と開幕前に支配人からアナウンスがあり、「ほぼ」のところで客席に暖かい笑いが広がる。
(名前のアナウンスがあったときにはすぐに気づかず「誰だろう?」と思ったが、あの澄んだ声を聴いたらすぐに「ミカエラだ!」と判った。)

今シーズンのピィの3作の中で際立って完成度の高い仕上がりと感じた。彼自身、自分のドメーヌ中にいると感じて作り上げたのだろう。
始まる前の舞台の雰囲気からアルセストの従姉篇のような印象があって、例の黒板風の壁が使われる。この壁にチョークでLIBERTÉと書かれた時には一瞬「またかー…」風な空気が客席に流れたが、こちらではアルセストほど文字は使われない。LIBERTÉの後にEN DIEU、もう1枚の仕切りの壁にÉGALITÉの後にDEVANT DIEUが付け加えられるのみ。(アルセストでは演出を簡単にするためかと疑いたくなるほど文字が多用されていた。だいたいフランス語を理解しない人には全く意味をなさないではないか!)
フランスでLIBERTÉ, ÉGALITÉときたら次はFRATERNITÉかと思うが、これは明確には示されない。が、この作品は修道女達のAMOUR FRATERNELもテーマの1つであるというのがピィの考えらしいので文字として視覚化されていなくても、底辺を流れる支流の1つと考えられる。

どこのシーンを切り取ってきても絵になるのだが、特にラ・フォルス邸から修道院長の居室に舞台が変わるシーン、前述の壁は四分割されるようになっていて、これが上下左右に分かれていく時に後ろからのライティングによって白い十字架に見え、ブランシュの運命が啓示されるかのよう。また牢屋から断頭台(断頭台はない)へ変わるシーンが美しい。両方とも白いライトが効果的に使われていて印象に残る。
舞台が複数に分割されて左右に揺れた後もとに戻るシーン、修道女達の心の迷いとそれが断ち切られて1つになることが明確に見える。

時々はさみ込まれる宗教画を模したシーンと最後の星空があまりにもナイーブな感じで個人的には「?」だった。この宗教画のシーンは修道女達の生き方に重ねられているのだろうか…最後の晩餐は何の象徴だろう?それとも本の挿絵のようなものだったのだろうか?
テオロジーを学んだピィなのできちんと意味をつけているのだと思うが、ポージングにもたついて舞台の流れが途切れて現実に引き戻されるし、私にはいまひとつピンとこなかった。

なるほどこう見せるかー、感心したのがクロワシー修道院長の臨終のシーン。
部屋を真上から俯瞰するようなセノグラフィになっている。つまり正面の壁が床になってベッドその他の調度品が置かれ、床が壁になって窓が取り付けられているのだ。この現実の世界ではあり得ない位置に観客を置くことによって、クロワシー修道院長の苦しみが客席にダイレクトに放射されることになる。プロゥライトの声がおどろおどろしく(もはや歌唱になっていないようなところもあって、それはそれでまた如何なものかと疑問だが)メイクも死顔なので、怖かったです、このシーン。

プティボンのピーンとした密度のある声はすべての音域でクリアに響く。プロジェクションもとても良い。あまりにもピュアな声の歌唱なので、それが一種の狂気というか「あ、この子は少しあちら側に行っちゃったところがある…」と感じさせてゾッとするところがある。演技も真に迫っていて、いや演技と言うよりも、彼女の少女のような体型、声から受ける印象も加わって、過敏で極限にふれやすくエキセントリックだが純粋なブランシュという少女(名前も無垢そのものですネ)がそのまま舞台上にいたように感じられた。

そしてコンスタンス役のジレ、もしかしたらプティボンの声にはピオの声より彼女の声の方が合っているかもしれない。ジレの声はあくまでも透明で明るく輝いていて、舞台上で唯一陽気さを感じさせる人物コンスタンスの描写によくあっている。その声で無邪気に「でも59歳ってもう死に時じゃなーい?」などと歌うので、昨夜の観客の年齢層だと軽いショックを受けた人が少なからずいたと思う(笑)。
でもどうして彼女は殉教に一度ノンと言うのにすぐそれを翻すのだろう?自分1人の意見のために他の修道女達の意志を折ることになるから?それなら最初からノンと言わなければいい。ここがシナリオとして不可解な所で、オペラのシナリオだったら「オペラだしね」で流せても、これは最初映画化される予定で書かれたものだから何か伏線がある(あるいは”あった”)んじゃないかという気がする。

声は美しいが少し俗っぽい歌い方でピッタリこない印象だったのがリドワンヌ新修道院長。対するマリー修道女長はコシュのプレゼンスに終始揺るぎない厳しさが加わって圧倒的。最後に「(修道女たちと共に殉教できず)名誉を失ってしまった」と叫ぶ時の混乱と動揺の気持ちとの対比が素晴らしい。ここでマリーと神父は客席の通路にいて、殉教の時を待つ修道女達とは隔たりのある場所にいることが明確に示される。
それからやっぱりトピ君のフランス語は異質すぎる。声も鼻にかかっていて美しく響かない時がある。ブランシュの兄としての心配や戸惑いはよく表現されているのに残念。

ロレールの指揮は衒いがなくスッキリとしていて、フィルハーモニアのまとまりのある音とともにプーランクの繊細なメロディーを織りなす。その音楽は表面に浮遊するにとどまらず、ソリストの歌声と共にぐっと深い所に入ってゆき、心の表面にストーリーを留めていく。
またコーラスも印象的。Ave Mariaの美しさには信者ではなくても心を洗われるような清々しい気持ちになるし、最後のSalive reginaからは神に運命を委ねた修道女たちの迷いのない心が伝わってきて胸をうたれる。

心に白く輝く小さな楔を打たれたような気持ちでTCEを後にした。


Jérémie Rhorer  direction musicale
Olivier Py  mise en scène
Pierre-André Weitz  scénographe (décors et costumes)
Bertrand Killy lumières

Patricia Petibon  Blanche de La Force
Sophie Koch  Mère Marie de l'Incarnation
Véronique Gens  Madame Lidoine
Anne-Catherine Gillet  Sœur Constance de Saint Denis
Rosalind Plowright  Madame de Croissy
Topi Lehtipuu  Le Chevalier de La Force
Philippe Rouillon Le Marquis de La Force
François Piolino Le Père confesseur du Couvent

Philharmonia Orchestra
Chœur du TCE