2015/10/03

Die Meistersinger von Nürnberg / ニュルンベルクのマイスタージンガー(シラー劇場)



東西ドイツ統合25周年記念日にプルミエールがあったSOBのマイスタージンガー、プルミエールだけは初日の土曜日に第一幕と第二幕(20h30~0h00)、翌日の日曜日に第三幕(12h00~14h00)という具合に2日間に分かれている。理由について公式の説明はないが、バレンボイムがどこかのインタビューで「土曜日に式典があるから、普通の時間に始めてしまっては来られない人がいる」とか「ストーリーに沿った時間でやってみたかった」と言ったり、”ワーグナーファンのメルケル首相のアジャンダに合わせた”などという噂もあった(彼女の姿はなかった)が、本当のところはベルリンの3つのオペラ(シュターツ、コーミッシュ、ドイツ)が週末2日で3つのオペラを観られるようにオーガナイズしたようだ。ちなみにコーミッシュではホフマン物語、ドイツではヴァスコ・ダ・ガマだった。後者2つはフランスオペラなのが興味深い(オッフェンバックもマイアベーアもドイツ人だったし、マイアベーアはベルリン生まれだが)。

ホールに入ってすぐ気付くのが、春のパルジファル公演の時に取り付けられていたピット上の覆いが取り外されていることと、舞台の両端から客席前方の二つの扉に向かって通路のようなものが設えてあること。通路は演出上のものだろうが、覆いを外したのは音響を考えてのことかしら(それとも通路を設置すると覆いがつけられない)?


舞台上には教会のしつらえ、大きなドイツ国旗がかかっている(ドイツ国旗は全編を通してそこここで使われている)。観客がまだ全て席につききらず客席がまだ明るいうちに客席のドアから舞台に人々が集まり始める。ドアのところでお喋りしているおじいさんがどうして帽子なんか被ってるのかしら?と思ったらマイスタージンガーのひとりだったw。

とにかくみなさんすごいパワーと迫力の演奏&歌唱で驚いた。まずバレンボイムの前奏曲での入魂ぶりが凄まじい!いくら今夜は第二幕までとはいえ、この調子で全力疾走したら彼ももう若くないんだし倒れるんじゃないかと心配になったくらい。その勢いと迫力がオケに伝わるのはもちろん、舞台上にまでみなぎっていてソリストもコーラスもこのままもし第三幕まであったら舞台上とピット内で全員バーンアウトしてしまうようなフルスロットルぶり!今夜は第二幕までだからパワー全開なのかしら..とも思ったけれど、みんなこの絶望的にデッドなアコースティックの中これだけ全力のパフォーマンスで感涙ものだった。

ザックスのコッホ、半年前にここでヨロヨロのアンフォルタスだった時のイメージが蘇ってどうしてもザックスのキャラクターには弱く思える。演出として靴職人としての面は控えめで、68年の洗礼を受けた哲学者風な描かれ方をしているせいもあって、他のマイスタージンガーに与さない個性が演技にも歌唱にも感じられないのはちょっと拍子抜け。でも2日目はグンと良くなり、3-2でヴァルターの歌を導き出していく部分で渋く光り、3-5では押し出しの良いザックスになっていた。彼はミュンヘンのマイスタージンガーでもザックスだが、どうなるかしら…。

ヴァルターのフォークト、バイロイトでハラハラしたのが嘘のようなピタリと決まる歌唱(プロンプターに助けられたところがあったが)。テノール/バッカスの時も思ったが彼はこういうコミックな役作りも巧い。最初飛び入りで歌う部分の荒削り&未熟感、ここではローエングリンで最初から感じらる神様成分のようなものはなく、素直で元気だけれど物を知らない普通の若者そのもの。翌日の歌合戦で披露するためにザックスの書斎で歌を創っていく途中で洗練度を高めつつ新しいドアをひとつひとつ開けていく才能の目覚めの喜びのような感覚。最後の”Morgenlich…”ではスーッとどこまでも伸びるようなラインの美しさにハッとさせられるほどの完成度の高さ、このステップアップを実に自然に歌い分けていた。
初日第二幕終わってのカーテンコールで笑顔がなかったのが気になった。調子悪いとは思えなかったけれど何かあったのかもしれない。

ベックメッサーのウェルバ、彼をここで聴けるとは望外の幸運。あれだけ細かい部分まで芝居をしながら全く音をはずさずプロンプターも見ずに、決して歌い流したりせずきちんと歌い上げるのだから。そして彼の巧さは「わたくし、お役人サマですから」の嫌味ったらしい部分と間抜けで小心な部分を絶妙にブレンドしてベックメッサーになっているところにある。そして後ろや上の方の人は見えないだろうなあと思われるような表情や仕草、舞台上のメインストーリーとは外れたところで(どれだけの観客があそこでベックメッサーを見るだろうか、と思われるようなシーンでさえ)地味に演技をしていて、芝居好きな私を心から楽しませてくれるのだった。しかしあれだ、彼の衣装は細身の彼には大きすぎて気の毒だったわ。

映像だけでもちろん現役時代は観てない往年の名ソリスト達が、もう本当に嬉しそうに楽しそうに演じたり歌ったりしていたのを見て、こちらまで幸せな気持ちになる。観客の中には彼らの現役時代を知っていて懐かしく思った人もいたはず。特にハンス・シュワルツ役のフランツ・マツーラは1924年4月生まれの91歳!杖をついていたけれど矍鑠としているし声もよく通る。彼の頑固親父ぶり(ベックメッサーが歌うのを聞く時の表情と言ったら!)に観客は大喜び。ジークフリート・イェルサレムはよく日焼けした顔に真っ赤なパンツを粋にはきこなすバルタザール・ツォルン、彼が歌うたびに客席は”おぉ!”という雰囲気になる。
マイスタージンガーのテーマの旧態依然としたシステムに新風を吹き込む異なる価値観、旧から新へのトランスミッション、それらの融合と反発、といったものが実際に舞台上のソリスト達が体現しているとくれば、これ以上の演出効果はない。

この効果を高めるものとして、マイスタージンガーはビル上にネオンで自社名が輝く企業のパトロンで、彼らの名前がロゴになったパネルが随所で使われる(役人のベックメッサーの名はない)。服装もシャツを外に出したラフなパンツ姿のザックスを除けば皆シックに装っている。エファは清楚な乙女としては描かれず、背中が開き裾のスリットがぐっと深いセクシーなドレスでヴァルタターを誘惑し煙草も吸う今のお嬢さんである(しかし彼女のクリアな声は清楚な乙女そのもの!)。徒弟達は皆おなじ黒のスーツに男子はマッシュルームカットのような、女子は外側にカールしたボブという割と没個性的な描かれ方をしているが、ここはこうしないと舞台上で視覚的に混乱するだろう。
ここに新しい血として流れ込んでくるヴァルターの白シャツとグレー(黒かな?)のパンツに革ジャンとウェスタンブーツという姿は異質なものとして視線を捕らえる。全く勝手判らずといった具合のヴァルターの演技も巧い。

第一幕の演出はセノグラフィも衣装で社会的カテゴリの違いを表してるところも良く考えられてるなーと思ったが、第二幕はほぼ全般でこじつけっぽいし無理がある。特に舞台を屋上に設定した意味がないし、そのせいで不自然なストーリー進行になる。社名のネオンを使いたいなら他に方法があったはず(ネオンはイメージと割り切るとか、遠景で見せるとか)。靴修理の台をわざわざ持ってこさせて作業するのは不自然。カナビスにジョウロで水をやるザックスって…(ONPのジークフリートみたいだw)。ベックメッサーがわざわざ着替える衣装も唐突すぎるしこの演出の中では意味を失っている。この第二幕をやはり意味不明と言っていたフランス人が何人かいたが(パンを買うときに並んでいて耳に入ってきた)、もしかしたらドイツに住んでいる人だとしっくり理解できるのかしら?!ジャーマンウィングの事故とフォルクスワーゲンの不正(揺らぐことのなかったエンブレムの失墜)、難民受け入れ(多様な価値観の受け入れ)今のドイツに重ねて見ることのできるであろう要素だ。

最後のシーンではパンクのグループ、LGTBのグループ、アナーキストやナショナリストのグループ、サッカーのサポーター(×2)、パーティーゴーアー、修道女にラバンまで、ありとあらゆる人々が舞台上で大混乱を引き起こす。ここはもう演奏も歌もどうだったかは記憶から吹き飛んでしまい、ただただあのカオティックな舞台が思い出されるばかり…。最後は倒れた夜警が上半身を起こして11時を告げて再び倒れ、第二幕終了。
舞台演出で登場人物の内面(キャラクター)からベクトルが出て観客はそれを直に受け取る場合と、時代と場所を設定してその環境からベクトルが出て登場人物と出来事に反射したものを観る場合とでは感じ方がずいぶん違うんじゃないかなと思った。前者は見る側が自分を投影できるので分かりやすいが、後者はその時代や場所を実際に知っているといないのとで大きく差が出るだろう。

ソリスト、コーラス、オケbyバレンボイムの大迫力パフォーマンスに終始圧倒されたのだが、終わって何がいちばん心に残ってるかというとオーケストラ。舞台と時に語りあい、時にサポートし、時に心情や風景を描いてとても表情豊かだし、その音は香りの良い上質の木を思わせる。とりわけ絃楽器は素晴らしく、第二幕第三場、夏至の頃の夕暮れに吹いてくる少し熱を帯びた風を肌に感じるようなあの音、第三幕への前奏曲では優しさ、ノスタルジー、人生の甘やかさや苦み等々さまざまな思いをページをめくるようにして見せてくれるあの語り口に心がジーンとした(どう少なく感じても涙目になる…)。今シーズンはこの後パリ、ミュンヘンとマイスタージンガーのNP(パリは共同制作なのでザルツブルクですでに公演があったもの)が続くが、一番手がこれだけバーを高くしてしまうと後続はクリアするのが難しいんじゃないでしょうかねえ…。



Musikalische Leitung: Daniel Barenboim 
Inszenierung: Andrea Moses 
Bühnenbild: Jan Pappelbaum 
Kostüme: Adriana Braga Peretzki 
Licht: Olaf Freese 
Chor: Martin Wright 
Dramaturgie: Thomas Wieck, Jens Schroth 

Hans Sachs: Wolfgang Koch 
Veit Pogner: Kwangchul Youn 
Kunz Vogelgesang: Graham Clark 
Konrad Nachtigall: Gyula Orendt 
Sixtus Beckmesser: Markus Werba 
Fritz Kothner: Jürgen Linn 
Balthasar Zorn: Siegfried Jerusalem 
Ulrich Eisslinger: Reiner Goldberg 
Augustin Moser: Paul O’Neill 
Hermann Ortel: Arttu Kataja 
Hans Schwarz: Franz Mazura 
Hans Foltz: Olaf Bär 
Eva: Julia Kleiter 
Walther von Stolzing: Klaus Florian Vogt 

Magdalene: Anna Lapkovskaja
David: Stephan Rügamer
Ein Nachtwächter: Jan Martinik


今回の席はパーテール6列目の中央をとってあったが、直前に1列目に戻りチケットがあると知ってチケットオフィスに電話して「交換は可能でしょうか?!」と訊ねた。すると「できますけど6列目の方が音がいいですよ、私だったらそのままにします。Believe me.」と言われてそのままにしたのだった。

それで正解だったのです。何回ヴァルターが正面で歌ってくれたことでしょう!もちろんエファではなく私に向かって歌ってくれているのだ思い込みながらポーッと聴かせてもらいましたとも(爆)!

Parkett rechts  Reihe 6 18-19

2015/06/21

CATONE IN UTICA / ウティカのカトーネ @ Opéra Royal de Versailles


ウティカのカトーネ、リヴレはオペラにぴったりで(この時代お決まりの大団円で終わらず、カトーネの自死で終わるというカヴァレリアルスティカーナチックなリヴレだが)あれだけ長丁場なのに納得して観られるというのはリブレッティストの力でしょうなー。下手な作りだったら半分もいかないうちに飽き飽きしたと思う。

とにかくファジョーリが歌唱も演技もプレゼンスセニックも申し分のないみごとなチェーザレ。彼のあの際立った所作や表情は、演技として意識しているのかそれとも役になりきってああなるのか、どうなのかしら?と思わずにはいられない。
先日のリサイタルでもそうだったが、彼のパーティションの音符のひとつひとつは粒ぞろいの真珠でできているのではないかと思わせる美しさのアジリタ。
その精緻な様は微細な彫りを極めた彫像や建築物を見るよう。かつ質の良いエナメルで仕上げたような艶のある輝く声で歌われると、もうただただその芳醇な流れに身も心もまかせて聞き惚れるしかなく…。まったく至福、この世の楽園としか言いようがない。(時々息をするのを忘れて聴いているので下手をするとあの世の楽園に行きかねない、危険!)

とにかくファジョーリはファジョーリでファジョーリだったのでもうあれこれ言うことはないのですが、第二幕の”私と戦場で相対したいならば”のアリアの前に舞台奥で客席に背を向け、こう準備するというか全てのエレメントを正しい位置に置くような感じで少し身動きしているうちに”行くぞ…!”というオーラが背中からスーッと立ち上ってくるようでそれがとても印象に残っている(ヴィジュアル的に今も脳裏に残っているのはこのシーン)。
このアリアを歌い終わって退場した後、観客の拍手や足踏みがすごかったからか、再登場して拍手を受けてた。こういうのって珍しい(ステージマネージャーさんに行けって言われたのかしら?!)。
私はどちらかと言うと彼の叙情的なアリアの方に心をうたれるが、今日のこのアリアは傑出していてちょっと別次元の歌唱だった。後日アルバムに収録された同じアリアを聴いたら別の曲のようで「あれ?この曲だったかしら?」と訝ったほど。
これだけ何もかも突出して素晴らしいとオペラの公演として他のソリストとのバランスはどうなのという気持ちにならないでもない。まぁ私はファジョーリを聴くのが何よりもまず第一の目的だったのでいいんだけど…。

マルツィアはいくつも違う音を歌うし(プロがこんなに音外しちゃいけないんじゃないかと思うくらい)、高音はそれほど得手ではないらしいし。それにこの舞台一の美人さんなのにキャバレーのコメディアンみたいなああいう顔芸はするべきじゃないわ(そういう場面でもないし)。
エミリアは艶のある女声のように聞こえて強さのある声なんだけど(所々フラゼがぶつ切りなのが残念)、立ち居振る舞いがトラック野郎なのがなんともまあ惜しいこと。第三幕で急にパワーダウンしてどうしたのかと思ったら、四重唱のところであの突拍子もない高音!これを出すために体力温存していたのかしらと想像(まるでサイレンのようで唐突すぎです、あれじゃ)。

カトーネはいいイタリア声だなあと思った(スペイン人らしい)が、アジリタになると突然カラカラと空回りするような声になって”あれ?”という感じ。もう少し落ち着いた演技の方がカトーらしいんじゃないかと思ったがそれは演出の要求かもしれない。カトーネの演出と言えば、彼が胸を刺した後に上着の胸の所から赤いリボンを出して流れ出す血を表しているのがいいなと思った。スタイリッシュなセノグラフィにぴったり。ただちょっとリボンが長すぎるかなと思わないでもなかったけれど。

マルツィアへの愛と悲嘆が絶妙にブレンドされたようなアルバーチェの声(声の色気で言ったら彼の声がいちばんでしょう)に歌が絶妙にマッチしている!そしてその佇まいがもうそのままアルバーチェの心情そのもの。舞台上で彼ひとりが”静”に見えて、激しく渦巻く愛憎劇からはじき出されてしまったような孤独が漂っている。でも彼の衣装、お魚屋さんのつける長い白いゴムだかプラスチックだかのタブリエみたいでちょっとアレだったわね。

演出はグラヴュールを背景にプロジェクションしたり、小道具として使ったり、モノトーンでシンプルにまとめたスタイリッシュなセノグラフィにそれぞれの登場人物の性格と血縁関係を表すような衣装。動物の骨とかアルバーチェがオウムで表されることとか(彼はヌミディア王子だったらどちらかというと馬じゃないかと思うが)ちょっと解らないところもあったが、ひどく気になるほどではなかった。

ミナージが弾きながら指揮するオケ、リサイタルの時よりもずっとよくていい意味で裏切られたと言える(まあ人数もシチュエーションも違うんだけど)。よくテンションを保ちつつソリストと共にストーリーを進めていく感じで、妙に引っ込み思案でもでしゃばりでもなく舞台との程よいバランスが聴いていてとても気分が良かった。

Leonardo Vinci
CATONE IN UTICA
Première en France

Opéra seria en trois actes. Livret de Métastase.
Créé au Teatro delle Dame de Rome, le 19 janvier 1728.


Cesare  Franco Fagioli
Catone  Juan Sancho
Arbace  Max Emanuel Cencic
Marzia  Ray Chenez
Fulvio  Martin Mitterrutzner
Emilia  Vince Yi

Il Pomo d'Oro
Direction et violon  Riccardo Minasi

Jakob Peters-Messer  Mise en scène
Markus Meyer  Décors et costumes
David Debrinay  Lumières
Etienne Guiol  Vidéo



席はバルコンロワイヤルのロジュだったが、この席、箱の中に詰められるのも同然で音響の良さなど望むべくもない上に、真ん中の席じゃなかったら横から張り出した壁様のもので視界が遮られる。おまけに暑い。
エレベーターに乗るのも嫌な私は、こんな所にとじ込められていたらオペラ観るどころか途中で気を失いかねない!と思い、案内のお嬢さんに「私このアルコーヴの中でで観るのは不可能です。バルコンじゃなくて下の席でも構いませんから他の席に移してください。」と申し出た。するとすぐその場で空席を探してくれたがそこでは見つからず。”ここで探すよりも受付で探してもらったほうが早いと思います”、と言われ受付へ。
「今日は満席で無理ですねえ」と渋い表情で言いつつもすぐに探し始めてくれたので(PCじゃなくて紙にプリントアウトした座席表に⚪︎とか×とか手書きしてあるのw)待っていると、舞台袖の席を出してくれた。随分斜めから観ることになるが、全然構いませんとも!あんな箱詰め状態で観るのとは(いや途中で観られない状態に陥ったやもしれぬ)比べ物になりません!
後日わかったことだが、この席をくれた受付の人はChâteau de Versailles SpectaclesのディレクターのBrunner氏だった。いつもは彼がここで観ているそうで「いい席ですよ」と勧めてくれた。そしてこの日ご本人はすぐ後ろの階段に座って観ていた。私たちに席を譲らなければならない義務もないでしょうに、親切な方でした。
いるんですよ、フランス人でも親切な人が。

2015/04/12

Parsifal / パルジファル @ Staatsoper im Schiller Theater

去年のウィーンで観たミーリッツ演出のパルジファルで呪いをかけられた気分になり、この呪いを解けるのは別プロダクションのパルジファルしかない!と思い発売初日に全然進まないサイトにイライラしながらチケットを入手。以来この日を救済の日とばかりに待ち望んでいたベルリン(シラー劇場)の新プロダクション。

結果から言ってしまうと、最後の最後で演出的には救われなかったけれど音楽的にはほぼ完璧に満たされて感動に浸り、気がつけばミーリッツの呪いは解けていた。演出と舞台セット担当のチェルニアコフ、バレンボイムと彼の率いるオーケストラ、ソリスト、コーラスが観客に提示したいものが一本の奔流となって押し寄せてくる感覚というのは滅多に受け取れるものではなく、このプロダクションをこの状態で観るチャンスを得たことに感謝したい気持ちにさえなった。

パルジファルのアンドレアス・シャガー、初日にネットラジオで聴いた時にまずその熱演ぶりが手に取るように伝わってきて去年の歌い流しボータとは大違いだなーと感心していた。
しかし一方ビブラートが強く聞こえたので少し懸念していたけれど、実際に聴くとあのシラー劇場のまったく響かない音響のためかほとんど気にならない。ただロールデビューで力が入っているのかいつもこのように歌うのか判らないが、ブツブツ切るように歌うことがある。伸びのあるよい質感の声なのだからもったいない。グルネマンツのパーペと比べてここが大きく異なる点。
しかし最後までまったくパワーが落ちず、テンションも切れないのがすごい!
パルジファルが登場すると舞台の空気が変わる。音楽がパルジファルのテーマで雰囲気をガラリと変えるが、彼が舞台に出てきて”Gewiß! Im Fluge treff’ ich, was fliegt.”と歌った途端に空気の密度が増して硬質になり舞台上のテンションが高まる。
(悪趣味な)Tシャツにショートパンツ、フード付きパーカーを腰に巻いてバックパックを背負った姿でも「彼だ!」と瞬時に納得できる声があるのだ。
ここで彼は観客の心をしっかりと捉えて最後まで離さない。これはチェルニアコフがパルジファルに与えているキャラクターとシャガーの声質と役作りが合致しているから。
第二幕のクンドリの昔語りを聞いての混乱、そして知の覚醒と苦悩(物語のターニングポイントになるこの部分はこういう風にきっちりと見せて欲しい!)、第三幕での演出による微妙な立ち位置をすべて的確に表現していて、芝居好きには嬉しかった。

クンドリのアニヤ・カンペ、初日の第二幕でひょっとしてギリギリで彼女には向かない役なんじゃないかと不安だったが、あの時は風邪か何かで不調だったらしい。この日は素晴らしいクンドリを聴かせて(そして見せて)くれた。声にツヤがあり、高音域で少し硬めになるものの愛を感じさせる声でアンビヴァレントなクンドリのキャラクターに1本筋が通るのがいいなと思う。チェルニアコフはクンドリに興味深い一面を与えていてそれが彼女の声とルックスによく合って相乗効果が感じられた(これは他のソプラノが歌い演じてどうなるか…)。この夏のバイロイトでイゾルデを歌う彼女、この愛を感じさせる声がイゾルデにうってつけではないかと今から楽しみで仕方がない。

グルネマンツのパーペ、第一幕でなんだかショボショボしている。でも声はネットだし正面で歌われるとパーンと迫力がある。大きなアーチを描くようなフラゼは言葉を美しくメロディーにのせる。モノトーンに陥ると聞いている方は飽きがくる昔話の部分もきちんとメリハリをつけて聴かせるし、これはこういう演技がついているのかしらとちょっと不思議に思っていたが、第三幕が始まる前、カーテン前に人が出てきた。やっぱりパーペが具合悪くなって歌わないのかな?と思ったが、不調だけれど歌うというアナウンスだった。
第三幕だってクンドリとはわけが違うのに大丈夫?と不安だったが(スカラのワルキューレでヴォータンを歌った時のことが頭をよぎった…)聴かせるべきところはビシッと聴かせ演じるべきところはしっかり演じ(洗礼シーンの感動は演技とは思えないくらい真に迫っていた)、不調でこれだけ聴かせてくれたらもう御の字です、言われなかったらそういう演技だと思ってました、という感じ。でもシャーガーやカンペに比べると精彩を欠いていたかな、やっぱり。

去年のこの時期、ウィーンのローエングリンでテルラムント役だったコッホがアンフォルタス。うーん、テルラムントの方が良かった。演技は的確だし歌唱も悪くないのだけれど(歌唱は去年のゲルネが良かったから比べてしまうとちょっと分が悪い)、いまひとつそこを乗り越えて迫ってくる何かが足りなかった気がする。METのマッテイなんて映像で観ているだけでも後悔と苦悩の念が溢れ出してくるように感じるのに。でもそれはこの演出がアンフォルタスをどうにも気の毒な役所に設定しているので仕方ないか…。クンドリの色香に迷った心に潜む色気みたいなものが感じられると役に深みが増したかもしれない。

バレンボイムの指揮するオケの演奏でいちばん印象的なのは舞台の色合いとマッチした少し暗めの音色。暗めとは言っても濁りがないので第二幕の明るさにも無理なく寄り添える。

バレンボイムはピットの客席側に覆いをとりつけ、ホールのライトが消えると暗がりの中で前奏曲が始まる。プルミエールの時と同じくとてもスローテンポだったが、その場で聴いていると作品が徐々に目覚めていく過程のように感じられる。ストーリーが始まると無理なくギアアップして軌道にのっていく。

音楽の流れを大事にしつつ、テンポをキュッと上げて緊張感をつけたりゆっくりな部分では上昇感のある音作りにしたりとテンションが下手に緩まない。また休符のいれ方などはジョルダンは彼の弟子だったなと思わせるところが。パーテールの3列目だったせいかソリストの声はかなりよく聞こえていたがそれでも時々オケの音が壁になることがあった(ここら辺もあてはまるジョルダン)。


オペラを観たその感動、あるいはよい意味でのショックや動揺のためにそのあと他のものを観たり聴いたりするキャパシティを失ってしまったような気持ちになることがある。最近それを感じたのは去年のトリスタンとイゾルデで、もう1年経っていることになるから私にとっては頻繁に起きる現象ではない。今回のベルリンのパルジファルの後、久しぶりにそれを感じた。これは大切な宝物として私が死ぬ前に開くであろう例の思い出のアルバムに大きな場所を占めることになる。


シラー劇場の壁に貼り出されているキャスト表はA4サイズのいたって簡素なもの。記念にもらえるかしらと思って案内係のお嬢さんに尋ねると、あれは差し上げられませんが、キャスト表は売店で売っていますよ、とのこと。ふうんそうか、残念、と思いつつコカゼロを飲んでいるとそのお嬢さんがやってきて「あれは差し上げるものではないんですが、終演後に人が少なくなったら取り外してお渡しできます」と言ってくれた。このお嬢さん可愛らしいだけじゃなくなんて親切なの!
終演後その紙を渡してくれながら彼女は「入口のところでサインを貰えますよ」と言う。誰のサインかと聞いたら主役の人、という。私は出待ちにもサイン会にも興味のない方だが日付入りのキャスト表にロールデビューのパルジファルのサインがあったらいいじゃない、と思って入口の方に向かうと、確かにテーブルがあって人が十数人並んでいる。私たちの後ろには5人もいなかったから総勢たったの20名くらい(まったく宣伝してなかった様子がありありと!)。
あっという間に元気にやってきたシャガー(まったく疲れの色が見えない不思議)、キャスト表にサインしながら「どちらからいらっしゃいました?」と聞くので「パリからです。パリにはいらっしゃらないんですか?」と尋ね返した。すると笑顔で「パリ、行きますよ!」「え、いつ?!」「18年にパルジファルで」とのこと。リスネーチーム、先見の明あっていいパルジファルを見つけましたね。彼の良さを最大限に引き出せる演出をお願いします。


Musikalische Leitung   Daniel Barenboim

Inszenierung   Dmitri Tcherniakov
Bühnenbild   Dmitri Tcherniakov
Kostüme   Elena Zaytseva
Licht   Gleb Filshtinsky
Chöre   Martin Wright
Dramaturgie   Jens Schroth

Amfortas   Wolfgang Koch

Gurnemanz   René Pape
Parsifal   Andreas Schager
Klingsor   Thomas Tomasson
Kundry   Anja Kampe


Parkett links 3 11-12