2013/10/31

Elektra / エレクトラ ⑴ @ Opéra Bastille


美しくひんやりと冷たいエレクトラ。
全編にわたってギリギリと弓を引き絞るような緊張感、禍々しさの澱み、爆発するような荒々しさは感じられない。最後の5分間はそれまで抑えられていたものが一気に噴出するパワーを感じる。ソリストもオーケストラもひんやりとした印象のパフォーマンスである。
それは登場人物ひとりひとりの精神分析をするかのような演出のためかもしれない。エレクトラには同じヘアスタイルに同じ黒のドレスを着た分身が25人ほどいて、彼女の精神状態や欲望を表すとともに、その分身たちの存在がエレクトラを巫女のように見せることがある(エレクトラ自身に巫女のような演技がつけられているシーンも)。
この分身たちは時に劇的な効果があり(オレストとの再開のシーン、エギストへの殺意)、時に煩わしくもある(クリテムネストラのベッドを運ぶ、ラストシーンでバタバタと倒れる)。

まるで焼却炉の底のような舞台、床全面に土が敷き詰められているのはピナ・バウシュの舞台を思わせる。この土がライティングによってテクスチャーを変えて視覚的効果が高い。
召使い達の会話が進む間、エレクトラは中央に倒れるように横たわっている。アガメムノン殺害の語りの場面で中央部に長方形の穴があき、そこからアガメムノンの死体と思しき男性が死体の如く横たわったまま現れる(彼は入浴中に暗殺されたので死体は裸体)。父親の遺体をかき抱いて嘆いたあと(役の入れ替わったピエタのように見えるが、音楽とはかみあわない)分身達が彼を頭上に掲げて舞台を回る。その遺体は穴の左側で分身に囲まれて立ち、静かにエレクトラと抱き合った後にその穴の中に消えていった(ように見えた)。
この穴はエレクトラの心中への入口として象徴的に使われるのかとおもいきや、宮殿への入口としても使われる。この使い方は少々疑問。

このエレクトラの最初のシーン、復讐の炎をメラメラと燃やしているように聞こえない(”Agamemnon!”は疲れきった声である)。これはテオリンの調子が悪いのか、演出としてそうなっているのか…?ここだけでなくテオリンの声はほぼ高音しか聞こえてこないのが意外だった。ジョルダン&オケが音の壁を作っていたわけではないし、マイヤーをはじめとして他のソリストの声はちゃんと聞こえたのに(席はプルミエバルコンの中央1列目)。
クリソテミスとの対話のシーンは印象に残っていない。姉妹の声がよく合っていて仲のよい姉妹の他愛ない口喧嘩のように見えたことは覚えているが…。

舞台中央奥の暗がり(といっても壁のこちら側)から純白のサテンのドレスを着て純白のベッドに入ったクリテムネストラが現れる(これを持ち運ぶのは分身たち)。
ドレスにはしみ1つなく、美人メイクに髪も綺麗にセットされていて美しいクリテムネストラである。身につけている魔除けの宝石は巨大なダイヤの指輪ひとつだけ。
母娘が対峙するシーンはクリテムネストラに、と言うよりマイヤーに軍配が上がる。不眠の原因を正当化しようとしてもできない恐れと焦りに、エレクトラにすがってでも自分を立て直そうとする姿、そこに自己の破滅につながる一抹の諦めを感じさせるところなどは発狂寸前どころかかなり冷静に自分を見つめているように思われる。

登場人物のなかでいちばんひんやりとした印象を与えるのがオレスト。エレクトラが冷たく燃える炎とすれば彼は蒼く深度のある水である。きっちりと置かれた深みのある声が美しいレガートを描き、一瞬「オレストの亡霊?」と感じるほど。

振り返ってみて、私は見方を失敗したと思う。エクスのエレクトラを頭から出して観ようと思ってはいたが、やはりそれは無理で、無意識のうちにあの衝撃をどこかで探し続けてしまったのだ。よく反芻してもう1回観たい(1ヶ月先になってしまうけれども)。


PHILIPPE JORDAN  Direction musicale
ROBERT CARSEN  Mise en scène
MICHAEL LEVINE  Décors
VAZUL MATUSZ  Costumes
ROBERT CARSEN, PETER VAN PRAET  Lumières
PHILIPPE GIRAUDEAU  Chorégraphie

WALTRAUD MEIER  Klytämnestra
IRENE THEORIN  Elektra
RICARDA MERBETH  Chrysothemis
KIM BEGLEY  Aegisth
EVGENY NIKITIN  Orest
MIRANDA KEYS  Die Aufseherin


PREMIER BALCON  1-12

テオリンはお母さんを亡くしたばかりでレペティションにほぼ出られなかったという話だが(ジェネラルだけ参加したらしい)、そういう状態でよりによってエレクトラ過酷すぎる。

2013/10/20

AIDA / アイーダ⑵(@Opéra Bastille)

初日のAキャストに続くBキャスト。本来はロバート・ディーン・スミスがラダメスだったが、前日のONPのツイートで知らされたように彼はキャンセルし、全く未知の代役が歌った。それにしてもCeleste Aidaからしていただけない。あんなにブツ切りにするとは息が続かないのだろうか?まず声で魅了することが無理ならばせめて美しいレガート、はっきりとしたディクションなどを確立しておくべきだと思うが、それも望むべくもないパフォーマンス。スロースターターでクレッシェンドに良くなっていくかという願いも途中で空しく消えた。あるのかないのか解らないような演技のディレクションも彼の脚を引っ張ったと言える、中途半端なパフォーマンスの見本のようだった。

ボチャロヴァのキャラクターとプレゼンスはアムネリスに合っていると思うし、声のプロジェクションもよいけれど、何故か「いや違うでしょう」という印象がぬぐい去れない。おそらく「アイーダの主役は私だから!よく見てちょうだい!」という意気のようなものがゴリ押しのように感じられて辟易させられたのかもしれない。しかし最後の "...pace.." にまったく祈りが感じられないのは致命的じゃないだろうか。

そのタイトルロールのガルシア。彼女の声と歌唱はすごくイノセントな響きをみせることがあって、それが囚われの身の”王女”というノーブルさを感じさせる。下手をすると「ワタシここで何やってるのかしら?」と実際に自問しているのではないかと思わせるほどだ。そして彼女の声にはニュアンスがあり、戸惑いや悲しみなどの感情が声を通して伝わってくるのがよい。またそれがいたって自然で無理がない。ピアニッシモで長く保ちきれずに終わってしまっても、それがアイーダの心の弱りを表しているように聞こえるほどである。アルヴァレスとのペアで聴きたかった、本当に!

意外といっては失礼だが今日の舞台的なプレゼンスの筆頭になるのはラムフィスのスカンディウッツィ。王も兵士も神官(このmesでは司教?)もすべてを睥睨するかの如き朗々とした威厳のある歌唱、堂々としたプレゼンス、相対的にみて株が上がったのかもしれないけれど、この役でこれだけ満足させられることもそれほどないと思う(笑)。

この公演でアイーダを終わるのはどうしても我慢がならないので、もう一度Aキャストの公演を観に行くことに。まったく散財の種が尽きない…。

Carlo Cigni  Il Re
Elena Bocharova   Amneris
Lucrezia Garcia   Aida
Zwetan Michailov   Radamès
Roberto Scandiuzzi   Ramfis
Sergey Murzaev  Amonasro
Elodie Hache  Sacerdotessa
Oleksiy Palchykov  Un Messaggero



PARTERRE 13 20-22

2013/10/12

DON CARLO / ドン・カルロ (@ Teatro alla Scala)



これが6月にバレンボイムの指揮でワルキューレを聴いたのと同じオーケストラだろうか?
前回の音のイメージと比べると、厚く落ち重なった秋の枯葉は影をひそめているようだがほぼ変化はない。そして前回は感じられなかった、刈ったばかりの芝生のようなフレッシュさと、使い込んだ麻のシーツの肌に心地よいしなやかさの両方を持ち合わせたオーケストラの音の素晴らしさが際立っている。

その音を材料に、ほどよい厚みがありながら重くならず、軽やかながら空まわりせず、それぞれのパートがしっくりとなじみあいながら職人技で織り上げられたと言うしかない音楽が、オペラの進んでいく道すじに絨毯のようにさーっと広げられていく。この絨毯の上を歩くソリスト達は幸せだ…。
オーケストラがまるで彼を慕って付き従っていくかのようなルイジの求心力、彼の動きの全てが音とリズムになって表されてくるのが見えるようなので、彼とオーケストラとコーラスのひとりひとりがそれぞれ1本ずつ糸で繋がっているのではないかと疑いたくなる。それに加えてヴェルディのパーティションの理解を共有しているからこそ、縦糸と緯糸のズレも歪みもなく仕上がっていくのだろう。これはやはりイタリア人指揮者の振るスカラ座オケのなせる技か。
長大なクレッシェンドが無理やわざとらしさを感じさせずに、これ以上は考えられないというレベルで実現され、最後のフォルティッシモが心地よい。
余計な飾りを排して聴く者の心の前に率直に差しだされるその音楽を心ゆくまで味わう至福の体験だった。

フィリッポの"Ella giammai m'amo”の冒頭、チェロの音が泣いたようにに湿っぽくならず、むしろ乾いた音がフィリッポの暗く翳った荒れ野のような心の風景を描き、その無情感をさらに増す。続いてその荒野をひとり行く王の足取りを悲しみに満ちた音色のヴァイオリンがトレースする。
そしてここのパーペの味わい深いこと!今日のソリストの中ではいちばんのパフォーマンス。椅子に座ったままで派手な演技がなく、足元に置かれた燭台と宝石箱以外に何も飾りのないセットの中に孤独なひとりの男としての王の姿がリアルに浮かび上がってくるのだ(机につっぶしたり、カーテンにすがりついたりしなくても心情は表現できるものなんです。本当にいいですね、この演出!)。私のドン・カルロの愛聴盤は61年サンティーニ指揮のスカラ座オケのものだが、今夜のパーペの歌唱はここでフィリッポを歌っているクリストフに匹敵するすばらしいもので、驚きとともに心を打たれた。6月のヴォータンを聴いた時の落胆を帳消しにして余りあるほど。最後に宝石箱を膝の上に抱いてうつむくところなど、冷えびえとした孤独の内にエリザベッタへの置き所のない熾火のような愛を感じる。

次点はロドリーゴのマッシモ・カヴァレッティ。彼自身のスタイルの完成にあと一歩という印象を受けるが、一生懸命にひたむきに歌い演じる様子がロドリーゴのニンにぴたりと合って観ていてまことに清々しい。自分に歌や台詞がない時も舞台にいるという意識があるのもよい。若手だと思うがこれから磨けばさらに光るに違いない。ディクションははっきりしているしフレージングも滑らかだし、声の色合いも力強さもヴェルディを歌うのにピッタリなんじゃないかしら。今後の活躍が気になるソリストである。

その他のソリストはドングリの背比べみたいなもので、エリザベットのセラフィンがすこし抜きん出ていたかなという程度。彼女は自分の中にあるエリザベッタのイメージを作り上げるのに全力を尽くしていた感じで、まさにそれは成功していたのだが、結果的にスケールが小さくて型にはまったようなので聴いていて感動するものではない(王妃としてのプレゼンスはあって舞台映えはする)。

エボリのグバノヴァ、力み過ぎか不調かでレガートに難あり。彼女の声はフリッカには合っていてもエボリには重すぎる感じがする。そしてプリンチペッサなのに声にも立ち居振る舞いにもノーブルさはなく、民間の豪商のワガママ娘のように見えた。

修道士と異端審問の長官の2人は声が若々しくて深みと重みに決定的に欠ける。修道士には亡きシャルル・カンを感じさせる重々しさはなく、異端審問官の方は第3幕のシェーナでフィリッポとのバランスが悪い。

そしてタイトルロールのサルトーリ…。あぁ未だにデリート不可能なイメージ、カルロの登場シーン。舞台下手奥から中央にむかって小走りに出て来るが、あのルックス+衣裳のせいで黒い黄金虫が坂を転がってくるように見える。そのあまりにもコミックな様子に思わず笑いたくなったほど。ドン・カルロって喜劇ですか?!そしてニュアンスのない一本調子の歌唱ながらもイタリアものを歌うと声の美しいのがとりえのはずなのに、今日は出だしからその声の表面がざらついている。デュオになると相手の声で粗さが目立たなくなるものの、ソロの部分では隠しようもない。彼は役者の意識が欠如しているのか、他のソリストが歌ったり演じたりしている間は棒立ちでボンヤリという大根役者のレッテルも貼れないような困ったタイトルロールである。でもドン・カルロで大事なのはフィリッポとロドリーゴなので、目を瞑ることにしましょう(と言うか本当に目を瞑りたかった)。


Filippo II, Re di Spagna  RENÉ PAPE
Don Carlo, Infante di Spagna  FABIO SARTORI
Rodrigo, Marchese di Posa  MASSIMO CAVALLETTI
Il Grande Inquisitore  STEFAN COČAN
Un Frate  FERNANDO RADO
Elisabettta di Valois  MARTINA SERAFIN
La Principessa d’Eboli  EKATERINA GUBANOVA
Tebaldo, paggio d’Elisabetta  BARBARA RITA LAVARIAN
Il conte di Lerma  CARLOS CARDOSO
Un araldo reale  CARLO BOSI
Una voce dal cielo  ROBERTA SALVATI

Direttore  FABIO LUISI
Regia e scene STÉPHANE BRAUNSCHWEIG
Costumi  THIBAULT VANCRAENENBROECK
Luci  MARION HEWLETT

Palco No.14 ORD.III 1-2

*ワルキューレのカーテンコールの時はバレンボイムが登場する前に既に3分の1以上のオケの団員はいなかったし、残りの団員もサーッと退場してしまったが、今日は違った!ほぼ全員がピット内に残って舞台上のルイジにむかって大きな拍手をおくっていた。好かれてるんだろうな、ルイジ。
*すぐ後ろの席だった年配のご夫婦、フランクフルト郊外からオペラ好きの友人達とバスをしたてて木曜日にやってきたと。フランクフルト・ミラノ間って何百キロあるんですか?!
数年前にバスティーユで観たカーセン演出のタンホイザー(タンホイザーが画家に設定されてるプロダクション)が何から何まですべて良かったと言っていた。

2013/10/10

AIDA / アイーダ ⑴ @Opéra Bastille -PREMIÈRE-

サングラスが必要なセノグラフィ!
この神殿が開いたり閉じたり回転したりする時に強力なライトが反射してすごく眩しい。
1968年にレオンティーン・プライスがタイトルロールを 歌って以来ONPでは上演のなかったアイーダ。今シーズン45年ぶりに復活ということでファンの期待も高かった公演の今日が初日。
第1幕はなんだか今ひとつキリッとせず、怠いパフォーマンス...。特にソリストの動きが練習途中のようだ。たいした演技がついているわけではないのに。
演出の設定は悪くないと思うのだけれど、カムフラージュのユニフォームを着てマシンガンを持ったフィギュランの使い方が消化不良かあるいは...いっその事ない方がよかった。
いやー、第1幕が終わったところで既に大ブーイングですよ!
セノグラフィだけ見たらとてもアイーダとは思えないけれど、国威発揚とナショナリズムをモチーフにしたのはここまでブーイングされるほど悪いアイディアではないと思う。それどころかアイーダとラダメスの悲恋物語の底辺にあるものはまさにそれだし、ジョエルのようにコロニー時代に設定する解釈もある。ピィはリヴレの歌詞をそのまま三次元にして舞台にのせたと言えるくらいだ。
ただあの死体置き場の累々たる死体、第3幕でアモナズロの「…母達や…を虐殺し」のところで上の通路から落とされてずっとぶら下がったままの死体、その真下にも転がる死体、安直なスローガンのプラカード、燃える十字架とKKKの白装束の人々、金色に輝く戦車、むやみに動き回る兵士、アムネリスが持つピストル、アマチュアみたいなダンサー等々…「うっわー、何なのコレ?」といわゆる目が点になるようなモノがいろいろと出てくるわけです。
エジプト→オーストリア、エチオピア→イタリアの完全読み替えで、ピィの意図するところが前述の多過ぎるいらないモノで邪魔されていたと思う。まぁ彼自身がまいた種ではあるが。でもこれから手直しをしていけばそれなりの作品になるんじゃないかと感じさせるプロダクションではないだろうか。
しかし!バレエの場面は全然ダメ!というかあれはバレエとかダンスとか呼べる代物ではなくお話しにならない。ピィにはバレエに重きを置くつもりがなかったのかもしれないが、あれだけの音楽があるのにただアマチュアかと疑いたくなるようなダンサーのPDDや、上半身裸でウロウロしたり悪ふざけのお仕置きにお尻を叩かれる兵士なんて全くつまらないし、手抜きとしか思えない。これなら何もない方がまだましじゃないかと思うレベル。ラ・ジョコンダを観てバレエが作品に与える影響力を学ぶべき!

タイトルロールのオクサナ・ディカはよく通る声でディクションもよいけれどピアニシモの繊細さとメゾピアノの柔らかさに欠けた一本調子になりがち。そのため全幕物のオペラではなくまるでリサイタルで歌っているような感じ。いや、リサイタルでもこればかり聴かされたら飽きるでしょう。
そして相手のソリストと反応しあって融合するどころか、意志の疎通さえもほとんど感じられないのが残念(これは演出のせいもある)。声にニュアンスをつけて苦悩や悲嘆の表現がもっとできるようにならないとアイーダは無理じゃないだろうか。まだキャリア的に時期尚早だったのかも。無理な話だが60年代のプライスの舞台を観てみたかった…!
その横でデュオの相手アルヴァレスの歌唱がよいので余計そう聞こえたのかもしれない。大音量の声ではないが、ニュアンスに富んだ声色と歌詞とシチュエーションに真実味を与える歌唱だ。ソロの部分は出だし慎重で、Celeste Aidaはそれほど心に迫るパフォーマンスではなかったが美しい仕上がり。その後時々居心地悪そうに歌うことがあって(レガートが切れる)、ドライブ感よく歌っていたラ・ジョコンダの時より緊張が高い印象を受けた。
アムネリスのディンティーノ、高音と低音の胸声であまりにも声が違いすぎて戸惑わされる。5速から急に3速にあるいはその逆にギアチェンジをする感じで、声のテクスチャーもサテンとビロードのようで差があり過ぎて…。でも彼女の王女としての存在感は流石。

今日のオーケストラ、ドンチャカガッシャーンのアイーダではなく、メロディアスでかなり交響曲的な響きのアイーダを聞かせてくれた。ピットにしまっておくのは惜しいミュージカリテ。金管はヴェルレク以降かなり良くなったように聞こえた。前奏曲、目を閉じると砂漠のオアシスの上に広がる満天の星の輝きが見えるような美しさ、一番最後のアムネリスの "Pace t'imploro, ... pace, pace... pace!" の部分はディンティーノの祈りのこもった深みのある声とともに静かに本を閉じるイメージ。


コーラス、ジョルダン&オケには賞賛の拍手。
(舞台右手には白い死体が2つ…これずーっとこのままで目障りで仕方なかった。)

ジェネラルがカオスだったと聞いていたし、案の定ものすごいブーイングだったのでピィは出て来ないんじゃないかと思ったら「いや〜やっぱりすごいブーイングだな〜」というような苦笑とともに小走りで出てきた。えらい(笑)!
個人的には不可解だったアルセストより意図するところの読み取れるアイーダの演出の方が好み。でも目障りな小道具類は見直してもらいたいですね!それからピィはどうもソリストへの演技のつけ方が上手くないんじゃないか。アルセストでも感じたが、今回もまた演技がついているのかいないのかよく解らない中途半端なソリストの動きが気になった。
10月10日はヴェルディの誕生日。バスティーユでは新プロダクションのアイーダ(ものすごいブーイング付き)の初日+ガルニエでは椿姫の最終日(アニエスのアデュー)だったので、記念になるなと思ってディストリビューションの入ったポスターを貰ってきた。


Philippe Jordan
Direction musicale
Olivier Py
Mise en scène
Pierre-André Weitz
Décors et costumes
Bertrand Killy
Lumières
Patrick Marie Aubert
Chef du Chœur
Carlo Cigni Il Re
Luciana D’intino  Amneris
Oksana Dyka  Aida
Marcelo Alvarez  Radamès
Roberto Scandiuzzi   Ramfis
Sergey Murzaev Amonasro
Elodie Hache Sacerdotessa
Oleksiy Palchykov Un Messaggero


Orchestre et Choeur de l’Opéra national de Paris