2014/01/22

Werther / ウェルテル ⑴ @Opéra Bastille

上からだとこの枠がどのように進んでくるかその仕組みが見えて面白かった。


さて、観に行こうか行くまいか迷っていたウェルテル。2nd balconからオペラグラスなしで観ればリスクもあるまいと出かけてみた。
それが功を奏したのかどうかは判らないが、意外な事にアラーニャがよくて驚いた。ワタシが大変苦手とする「オレ様アラーニャ」の雰囲気がないどころか、何かこう拠り所のない霧の中をさまようような不安さのようなものを感じた。その様子が報われない愛を心に自死を選ぶウェルテルの歌唱に自然に投影されている。

そして何よりも明瞭なディクション、自然なフラゼ、字幕が全く必要ない明晰さである。これだけ明晰なフランス語で歌われると、この点ではさすがのカウフマンもアラーニャに及ばないなぁと実感。声にもう少し翳りがあるともっとウェルテルにぴったりなのに!その点カウフマンはもう声だけでウェルテルそのもの。しかし4年前の"Pourquoi me réveiller"では涙はにじんでこない…。先日カウフマンがフランスのラジオ局のインタビューで「フランス人はフランス語に難しい(厳しい)のは知ってますから」と言っていたので今後に期待したいですね!

フランス人なんだからディクションよくて当たり前かと思えばそうではなくて、例えばデエは声に丸みがあってプロジェクションもいいのに、終始モアモアーっとした歌い方。あとやっぱり彼女は立ち居振る舞いを役によってしっかり変えないとねぇ。どれもこれもみんなロジーナみたいなgarçon manquéじゃないの。
どうも演技がダメな2人…観ていて冷める。©JulienBenhamou/ONP
演技がダメなのはアラーニャも同じ。演技が歌唱の足を引っ張っているといってもよいほど。千両役者のプレゼンスがないのは致し方ないが、演技でストーリーに現実味を与えられないのでは困る。「うわー、雰囲気ぶち壊し!見たくなかった!」と幻滅したのは第2幕でアルベールとシャルロットが去った後を追うように駆け足で登場する場面。2人の後ろ姿を目にして思わず走り出してしまう焦燥感が感じられないどころか(ここ、カウフマンは巧い!)、もうピーラピラと小走りで清々しい青春映画のパロディみたいに見える。自然な動きというものがなくて、ほぼ動かないか、動くと「え?」っという感じ。そういう意味で第4幕は普通に観ていられてよい。

そして今夜の一番は、指揮のプラソンとオーケストラ!歌がなくてもメロディーだけで意味が通じるんじゃないかと感じられるほど、ストーリーと一体化している。第三幕の冒頭など、あまりの美しさにポーッとしました。
イメージで言うと広葉樹の木陰に湧く澄んだ泉のよう。陰のない明るいアラーニャの歌声とは解け合うことなく、寄り添っている感じ。

今日は恐る恐る2nd balconから観たので、次回はパーテールで観たいとおもいます、はい。

Michel Plasson  Direction musicale
Benoît Jacquot  Mise en scène
Charles Edwards  Décors
Christian Gasc  Costumes
André Diot  Lumières 
(d’après les lumières originales de Charles Edwards)

Roberto Alagna  Werther
Jean-François Lapointe Albert
Karine Deshayes  Charlotte
Hélène Guilmette  Sophie
Jean-Philippe Lafont  Le Bailli
Luca Lombardo  Schmidt
Christian Tréguier  Johann
Joao Pedre Cabral  Brühlmann

Alix Le Saux  Kätchen


Second Balcon 2 44

2014/01/03

La Traviata / ラ・トラヴィアータ @Bayerische Staatsoper, Nationaltheater


黒い壁、そこにひとつ開いたドア、敷き詰められた色とりどりの枯葉既視感ありのセノグラフィ。これはジークフリートと同時期の作品かしらー? でも雰囲気は全然違うラ・トラヴィアータなところが面白い。黒い壁にはいくつものドアがあり、第1幕のヴィオレッタ宅の一部として開けたり閉めたりして使われるのだが、ジークフリート時のようにたった1つだけ開けて使われる事も多い。また紗のように透けて見える黒いスクリーンも使われている。両者とも積極的にアヴァン・セーンをメインに使う演出に欠かせないセットの一部である。
第2幕の田舎暮らしのシーンでブランコやシーソーが現れた時には「セルバンのルチア?!」と思った。ここでは舞台全体が庭のように使われるが下手手前には壁とドア、舞台奥に紗のスクリーンがあり、登場人物がその後ろに開いた部分から出入りするようになっている。
続くフローラ宅のソワレではジプシーも闘牛士も出てこなくて、招待客(コーラス)が歌いながらカードマジックみたいなのを披露(真ん中の人は本当のマジシャンだったと思う)。舞台左方に大きなシャンデリアが下がっている。
中央少し奥に壁があり、ドアの向こうはディナーのための部屋。
この劇場は舞台脇にスペースがないので場面転換が制約され、セノグラフィ造りに工夫が必要だろうなと思う。
第3幕ではヴィオレッタが臥したベッド(マットレス)は舞台手前の端ギリギリに置かれている。少し後ろに紗の黒いスクリーンがあり、スクリーンの左の方がドア程度の大きさに切り抜かれている。カーニヴァルの人々はこの後ろからヴィオレッタに迫るし、パパジェルモンもこちら側に置かれた椅子に座り、アンニーナと医師もこちらが定位置で、ヴィオレッタとの乖離感(ヴィオレッタの孤独)を表しているように見える。スクリーンの後ろ、舞台下手にはフローラ宅に下がっていたシャンデリアが床に落ちて転がっている。

ヴィオレッタのペレスもアルフレッドのマグリも声高らかにスルスルと歌ってそこそこ演技も良いのに、何故か心に迫ってくるものがない。それどころか音楽とそれを聴きたいワタシの間に立ちはだかっているような気配を感じたりする。不思議だった。それは彼らのせいではなく、私自身ラ・トラヴィアータにそれほど惹かれる物を感じないからかもしれない。チョーフィやドゥセのパフォーマンスを素晴らしいと思って観るがメロディーや歌唱が心にスッと沁みてくる感覚はないので、おそらくそういうことだろう。

ペレスは"Sempre libera"の最後の方で声の密度が急降下して(イメージとしては乾燥麩のような声)歌いきれるか心配になったが、すぐにアントラクトに入ったのでそこでしっかりと持ち直したらしく、その後はほぼ危なげなく歌い切った。既に歌い慣れて役どころをつかんでいるように見受けられた。

アルフレッド役は最初のキャスティングではカストロノーヴォだったが、いつの間にかマグリに変更になっていたのよね。シラグーサみたいに何の引っかかりもなく陽光に輝く声がカーンと出てくるかと思うと、コルチャクみたいに力で押すような声を出すことも。ずっと力まずに歌ってくださーい。でもディクションがよく聴きやすいアルフレッドだった(やはりイタリアものはイタリア人がいいね)。

ハンプソンのパパジェルモンについた演出が面白い。アルフレッドの婚約者(候補)を連れてくるのだが、まるで自分の若い愛人を息子にくっつけたいように見えて笑える。その気がないどころか嫌がるアルフレッドと、彼に邪険に扱われて機嫌を損ねる若い女の子の間にはさまれてオロオロと右往左往する姿も面白い。ヴィオレッタの説得も手っ取り早く済ませたい様子がありありと見えるし、役者なハンプソンによく合った演出と思った。


そしてこのクレーマーの演出ではヴィオレッタは死んだかどうか明確に示されない。舞台奥に開いたドア(多分)から強い光が射していて、その光に向かって歩いて行き、途中で幕がおりる。カーセンのホフマン物語みたいね。


Musikalische Leitung  Paolo Carignani
Inszenierung  Günter Krämer
Bühne  Andreas Reinhardt
Kostüme  Carlo Diappi
Licht  Wolfgang Göbbel
Chor  Sören Eckhoff

Violetta Valéry  Ailyn Pérez
Flora Bervoix  Tara Erraught
Annina  Rachael Wilson
Alfredo Germont  Ivan Magrì
Giorgio Germont  Thomas Hampson
Gaston  Francesco Petrozzi
Baron Douphol  Christian Rieger
Marquis d'Obigny  Tareq Nazmi
Doktor Grenvil  Christoph Stephinger
Giuseppe  Matthew Grills
Ein Diener Floras  Leonard Bernad
Ein Gärtner  Rafał Pawnuk

Parkett links 1 7-9

2014/01/02

La Forza del Destino / 運命の力 @Bayerische Staatsoper, Nationaltheater

チケット入手に時間がかかったこともあって延々と楽しみにしていたハルテロス、テジエ&カウフマンの運命の力@ミュンヘン!昨日(元旦)のベルリンオペラの第九に落胆したので(ベルリンの第九は…全く響かないホール、独り熱い指揮者と始終バラーッとした印象で最後は本当にバラバラになったオケ、箱の中で歌っているように聞こえるコーラス、ヴィブラートが強すぎて乗り物酔いしそうなソプラノ、聞こえないメッゾ、スカスカ声のテノール、鬼瓦のような顔で朗々と歌うパーペ…だった)、期待がさらに増すわけです!!!


パリから来た者には「国会?マドレーヌ?」なナショナルシアター、スカラ座よりも堂々とした建物で広々としたフォワイエもあるが、何やら大味な感じ。まぁこういうコトを言うからパリの人間は嫌なヤツと思われるのだろうが、ガルニエに慣れていると他のオペラハウスはどうしても「ふうん…」になってしまう。イートインスペースは逃げ出したくなるような天井の低さで(あの部分は地下かな?)、何故あの広いフォワイエを使わないのか不思議。


プログラムを入手して、席に着く(ドアを開閉する係はいるが、席まで案内してくれる人はいない模様)。一般のロジュはなく(中央に貴賓席のようなロジュが1つとその両脇に)バルコンのみで、パーテールの中央に通路がない席の配置。真ん中辺りの席で最後にやってきたら面倒かもしれないと思ったが、ゲルマン民族は巨大なためか前列とのスペースはゆったりめ(椅子も高い!)。そしてミュンヘンのオペラの観客は席を立って待っていると前を通る時に「ダンケ」などと言いながら本当にニコニコしながらこちらを向いて通って行く。最初「アタシ顔に何かついてるのかしら?」と心配になったくらい。これはきっとパリの観客が仏頂面すぎるのよね。

日付入りのディストリビューションを見ると予定通りのキャスティング。あーハルテロス歌うワー、と安堵していたら(キャンセルがあるとしたらハルテロスだろうと思っていた)、他の色々なモノと一緒にディストリビューションと同じ紙の細長いストリップが1枚ピラ~ンと挟まっているのを発見!
私はドイツ語全然判らないが、これがカウフマンに代役のアナウンスだということはすぐに理解。
えーと、あのう…、誰なの?このテノール!!!この時のワタシ、眉間にキリキリと縦線が入っていたに違いない。ホールのライトが消えると誰かがカーテン前に出てきて喋るが「謹賀新年」しか判らないし!ONPのアナウンスよりもずっと長かったのは、代役の略歴でも話していたのかも。ちょっと!寒さをおして(いや今年の冬は暖冬だが)はるばるミュンヘンまで来たのに代役って何なの!?今日は録音もストリーミングもないからってずるい!などと心の中で悪態をついた後、ま、ONPに出演する時には堪能させてもらおうじゃないの、と思ったら案外あっさりと気持ちの折り合いがついた。

そのテジエ☆!☆!☆!今の彼はキャリアのいちばんいい時期が始まったところではないだろうか。先シーズンのエスカミリオではそういった印象は受けなかった。その彼を聴けるのは本当に幸せだ。コクのあるsuaveな声(これはsuaveとしか言いようがない)はインパクトがあるが荒いところがなく、目の前で歌われると陶然とした心持ちになる。あのニュアンスの付け方やフレージング、全て「ココ!」というところにピッタリときて、その心地よいこと!願わくば狂気じみた復讐心に燃えるカルロなどではなく、ポーザで聴きたいところだった(笑)。
そしてストリーミングを見た時も思ったけれど、彼はいつからあれだけの役者になったのだろう?!今シーズンはONPでマルチェッロとパパジェルモンにキャスティングされているのでこの調子で歌って演じてくれればいいなと思う。

そしてやっぱりハルテロスの声とプレゼンスは凄い...。背が高くて舞台映えすることもあるけれど、彼女が舞台上にいるとどうしても視線は彼女に惹き付けられる。そしてパワフルな部分、リリックな部分、メロディアスでピアニッシモな部分、全てまとめてあれだけ破綻なくきっちり歌えるんだなー、凄いなー、とただただ感心。でもやっぱり彼女はドイツ語のレペルトワールの方が好き。イタリアものはそれほどピンとこない。

あらゆるトーンの色合いと柔硬のテクスチャーを取り揃えたキャラメルのような弦、みずみずしい果物のような木管、美味しい音色のオケ(目に見えたらきっと綺麗だと思う)。金管は少し控えめですかね。指揮がメロディアスな流れを無理なく操っている感じ。コーラスはくぐもってくすんだような声がイタリアを感じさせず、ちょっと「?」。またオケから遅れ気味で軽快さがなくモッタリとした空気が漂ってしまうのもいただけない感じだった。

そして最後にトドロヴィッチ!最初に「誰?!」などと眉をひそめて申し訳なかった!舞台上のプレゼンスこそカウフマンに及ばないものの、声そのものは彼よりずっとイタリア声でビックリ。ディクションもフレージングもレガートも充分に堪能した。キャラクターの陰影のようなものは感じられなかったが(多分一生懸命で余裕がなかったのだろう)、代役でこれだけ聴かせてくれたら満足です!カーテンコールでは観客もかなりの拍手をおくっていたし、ハルテロスが「ブラヴォー☆」風にハグしていたのが印象的だった。(後から22日のカウフマンを聴いて気づいたが、トドロヴィッチに欠けていたのは弱々しいところもパワフルなところもある、あらゆる面でのヒーロー感。)

それにしてもKusej(sの上に逆さ^、何と発音するの、この名前)の演出はねぇ…。舞台写真はBSOのサイトで。
唯一セノグラフィとして美しかったのはガラガラと積まれた白い十字架。それも最初から置かれたままの木のテーブルが邪魔している。
そのずーっと置いてあるテーブルの使い方が謎。何故あの上に昇ったり降りたりしながら演技しなければならないのか皆目分からない。どうしてテーブルの上?って何回も思った。あのテーブルも何か意味があるのだろうが(解らないけど)。

父親が銃の暴発で(あの口径の銃が暴発したらあの程度の出血じゃ済まないw)倒れた際、カルロが舞台下手と父親の間を走って往復し往復の度に役者が代わって成長したように見せるのだが妙な演出。ここで成長する姿を見せないと次幕で出てくるのが彼と判らないと思ったのだろうか?そして父親の亡骸が第2幕になってもテーブルの横に横たわったままなのも謎。

第3幕のシーン、爆撃された建物を上から見た図にする必要はない。これはカーメリットの対話でピィが劇的に成功していたセノグラフィだが、ここでは何の意味もない。そしてアブグレイブの写真の再現や半裸の男に首輪をつけて犬のように引き回すなど悪趣味にも限度がある。第4幕の冒頭、リヴレではメリトーネがスープを配給するシーンはケバブの配給シーンになり、メリトーネは中身をごまかそうとまでする。宗教の対立をモチーフに妙に説教じみたというか、モラルをつきつけてくるようなところも後味が悪い。オペラにそんなことを求めてる観客なんているのだろうか?

とツイートしたら、フォロワーの方が”ドイツのとある演出家が「税金で賄える部分があるからある程度好き勝手やって実験できる」的なことを言ってました”と教えてくださった。が、実験ならば観客にチケット代を払わせず、潔く自腹を切ってやればよいのだ。チープな創造力だけでなく、200€近く支払って演出家の好き勝手な実験を見せられて戸惑う観客の事も考える想像力の方も養ってもらいたい。

私は「オペラの演出はこうでなければならない」といった信念をもってオペラを観ているわけではなく、音楽とリヴレとバランスがとれた融合感のあるもの、欲を言えば演出の意味がスッと心に入ってくるもの、が好みなだけである。観ながらこれは何?あの演技は何を意味しているの?などと疑問がわいてくるような演出はワタシには邪魔に感じられる。演出家へのインタビューなどはほとんど感心がない。演出家が自分の演出にさらに説明を加えなければならないとしたら、それは失敗作だと思っているからだ。



Musikalische Leitung  Asher Fisch
Inszenierung  Martin Kušej
Bühne  Martin Zehetgruber
Kostüme  Heidi Hackl
Licht  Reinhard Traub
Produktionsdramaturgie  Benedikt Stampfli, Olaf A. Schmitt.
Chöre Sören  Eckhoff

Il Marchese di Calatrava / Padre Guardiano  Vitalij Kowaljow
Donna Leonora  Anja Harteros
Don Carlo di Vargas  Ludovic Tézier
Don Alvaro  Zoran Todorovich
Preziosilla  Nadia Krasteva
Fra Melitone  Renato Girolami
Curra  Heike Grötzinger
Un alcade  Christian Rieger
Mastro Trabuco  Francesco Petrozzi
Un chirurgo  Rafał Pawnuk

Parkett links 2 43-45

2013/12/10

Dialogues des Carmélites / カルメル会修道女達の対話 @TCE


"Qui mesure ne donne pas" / "J'aime la nuit autant que le jour"

ピオがキャンセルとは
ジェネラルで演技はしたもののまったく歌わなかった(コーラスの女性が代わりに歌ったらしい)のは本当に調子が悪かったのだ。
しかし代役に立ったのはA-C Gilletとは確かにRemplaçante de luxe。彼女は前日の午後パリに来てすぐ音楽面の準備を、当日演技の準備をして「ほぼ完璧に」仕上がっています、と開幕前に支配人からアナウンスがあり、「ほぼ」のところで客席に暖かい笑いが広がる。
(名前のアナウンスがあったときにはすぐに気づかず「誰だろう?」と思ったが、あの澄んだ声を聴いたらすぐに「ミカエラだ!」と判った。)

今シーズンのピィの3作の中で際立って完成度の高い仕上がりと感じた。彼自身、自分のドメーヌ中にいると感じて作り上げたのだろう。
始まる前の舞台の雰囲気からアルセストの従姉篇のような印象があって、例の黒板風の壁が使われる。この壁にチョークでLIBERTÉと書かれた時には一瞬「またかー…」風な空気が客席に流れたが、こちらではアルセストほど文字は使われない。LIBERTÉの後にEN DIEU、もう1枚の仕切りの壁にÉGALITÉの後にDEVANT DIEUが付け加えられるのみ。(アルセストでは演出を簡単にするためかと疑いたくなるほど文字が多用されていた。だいたいフランス語を理解しない人には全く意味をなさないではないか!)
フランスでLIBERTÉ, ÉGALITÉときたら次はFRATERNITÉかと思うが、これは明確には示されない。が、この作品は修道女達のAMOUR FRATERNELもテーマの1つであるというのがピィの考えらしいので文字として視覚化されていなくても、底辺を流れる支流の1つと考えられる。

どこのシーンを切り取ってきても絵になるのだが、特にラ・フォルス邸から修道院長の居室に舞台が変わるシーン、前述の壁は四分割されるようになっていて、これが上下左右に分かれていく時に後ろからのライティングによって白い十字架に見え、ブランシュの運命が啓示されるかのよう。また牢屋から断頭台(断頭台はない)へ変わるシーンが美しい。両方とも白いライトが効果的に使われていて印象に残る。
舞台が複数に分割されて左右に揺れた後もとに戻るシーン、修道女達の心の迷いとそれが断ち切られて1つになることが明確に見える。

時々はさみ込まれる宗教画を模したシーンと最後の星空があまりにもナイーブな感じで個人的には「?」だった。この宗教画のシーンは修道女達の生き方に重ねられているのだろうか…最後の晩餐は何の象徴だろう?それとも本の挿絵のようなものだったのだろうか?
テオロジーを学んだピィなのできちんと意味をつけているのだと思うが、ポージングにもたついて舞台の流れが途切れて現実に引き戻されるし、私にはいまひとつピンとこなかった。

なるほどこう見せるかー、感心したのがクロワシー修道院長の臨終のシーン。
部屋を真上から俯瞰するようなセノグラフィになっている。つまり正面の壁が床になってベッドその他の調度品が置かれ、床が壁になって窓が取り付けられているのだ。この現実の世界ではあり得ない位置に観客を置くことによって、クロワシー修道院長の苦しみが客席にダイレクトに放射されることになる。プロゥライトの声がおどろおどろしく(もはや歌唱になっていないようなところもあって、それはそれでまた如何なものかと疑問だが)メイクも死顔なので、怖かったです、このシーン。

プティボンのピーンとした密度のある声はすべての音域でクリアに響く。プロジェクションもとても良い。あまりにもピュアな声の歌唱なので、それが一種の狂気というか「あ、この子は少しあちら側に行っちゃったところがある…」と感じさせてゾッとするところがある。演技も真に迫っていて、いや演技と言うよりも、彼女の少女のような体型、声から受ける印象も加わって、過敏で極限にふれやすくエキセントリックだが純粋なブランシュという少女(名前も無垢そのものですネ)がそのまま舞台上にいたように感じられた。

そしてコンスタンス役のジレ、もしかしたらプティボンの声にはピオの声より彼女の声の方が合っているかもしれない。ジレの声はあくまでも透明で明るく輝いていて、舞台上で唯一陽気さを感じさせる人物コンスタンスの描写によくあっている。その声で無邪気に「でも59歳ってもう死に時じゃなーい?」などと歌うので、昨夜の観客の年齢層だと軽いショックを受けた人が少なからずいたと思う(笑)。
でもどうして彼女は殉教に一度ノンと言うのにすぐそれを翻すのだろう?自分1人の意見のために他の修道女達の意志を折ることになるから?それなら最初からノンと言わなければいい。ここがシナリオとして不可解な所で、オペラのシナリオだったら「オペラだしね」で流せても、これは最初映画化される予定で書かれたものだから何か伏線がある(あるいは”あった”)んじゃないかという気がする。

声は美しいが少し俗っぽい歌い方でピッタリこない印象だったのがリドワンヌ新修道院長。対するマリー修道女長はコシュのプレゼンスに終始揺るぎない厳しさが加わって圧倒的。最後に「(修道女たちと共に殉教できず)名誉を失ってしまった」と叫ぶ時の混乱と動揺の気持ちとの対比が素晴らしい。ここでマリーと神父は客席の通路にいて、殉教の時を待つ修道女達とは隔たりのある場所にいることが明確に示される。
それからやっぱりトピ君のフランス語は異質すぎる。声も鼻にかかっていて美しく響かない時がある。ブランシュの兄としての心配や戸惑いはよく表現されているのに残念。

ロレールの指揮は衒いがなくスッキリとしていて、フィルハーモニアのまとまりのある音とともにプーランクの繊細なメロディーを織りなす。その音楽は表面に浮遊するにとどまらず、ソリストの歌声と共にぐっと深い所に入ってゆき、心の表面にストーリーを留めていく。
またコーラスも印象的。Ave Mariaの美しさには信者ではなくても心を洗われるような清々しい気持ちになるし、最後のSalive reginaからは神に運命を委ねた修道女たちの迷いのない心が伝わってきて胸をうたれる。

心に白く輝く小さな楔を打たれたような気持ちでTCEを後にした。


Jérémie Rhorer  direction musicale
Olivier Py  mise en scène
Pierre-André Weitz  scénographe (décors et costumes)
Bertrand Killy lumières

Patricia Petibon  Blanche de La Force
Sophie Koch  Mère Marie de l'Incarnation
Véronique Gens  Madame Lidoine
Anne-Catherine Gillet  Sœur Constance de Saint Denis
Rosalind Plowright  Madame de Croissy
Topi Lehtipuu  Le Chevalier de La Force
Philippe Rouillon Le Marquis de La Force
François Piolino Le Père confesseur du Couvent

Philharmonia Orchestra
Chœur du TCE           




2013/12/01

Elektra / エレクトラ ⑵ @ Opéra Bastille

1ヶ月前の公演と比べてどんな風に変わったか(あるいは変わっていないか…!)。そして私はエクスのエレクトラの印象にとらわれることなくアプリシエートすることができるのだろうか?という思いを抱きつつ出かけた最終公演。

前回のひんやりとしたエレクトラに比べて熱かったこと!!!
オーケストラもソリストも押しがよくて迫力が全然ちがった。迫力と言ってもただの大音響ではなく、音が一歩前に出て迫ってくる印象をうけるのだ。美しいメロディーは切ないまでに美しく、ただただ復讐心と憎しみに満ちたエレクトラを表現するだけでなく、亡き父親と彼女自身の失われた日々への鎮魂の祈りのような流れのように感じられた。それはテオリンの歌唱と抑えめの演技にも感じられることで、オケの奏でる音楽と彼女のパフォーマンスが一体となって1つの物語を作り上げていた印象である。
エレクトラが例の長方形の穴があく舞台中央に横たわった姿で作品が始まり、最後は再び同じ位置に同じ姿勢で横たわって終わる。まるで全ては彼女の夢の中で起きた出来事のようにもとれる。

前回も感じたが、クリテムネストラは冷静に自分の置かれた状態を見ている。だからオレストの死が伝えられた時「心の重しを取り除くこの知らせ…それでも完全な安らぎはない…」という意識で力なく笑うのだ(悪魔の哄笑ではない)。
でも、彼女にはアガメムノンを殺したいほど憎んでいた、その理由がある。彼女にしてみればエレクトラが復讐心に燃えるのと同じレベルの憎しみだろう。このオペラのストーリはそこをひとまず考えずにおいて、ということで書かれているのか、それとも「どんな理由があったって、お父さまを殺すなんて、許せないわーっっっっ!」というエレクトラの立場に立って書かれているのか、興味深いところだ。

オレスト役のニキーチン、「え、この役ってこんなに演技ついてたの?」と尋ねたかった(笑)。前回の動かぬ蒼く深い水の印象は声のニュアンスのみにとどまり、父の復讐の強い意志をもって帰ってきた、そしてそれは自らの使命であるという覚悟をうかがわせる演技。また辛い日々を過ごしたエレクトラを思いやる気持ちも表されているのに気がついた(ここの演出巧いなーと暗がりで独り頷きながら感心してしまった)。

ここら辺を過ぎたあたりで不思議よねーと思ってしまうのがエレクトラの言動。王宮に入って行くオレストを黙って見送り、しばらくしてから「あっ、いざというときに斧をわたせなかったー!」なんて、緊張感あふれる音楽の狭間でなんだか拍子抜けな感じがします。

あーあ、あと2~3回観て進化発展の具合を目で確かめたかった舞台だわー。残念ー!

はたと気づいたが、ジョルダンはまだ39歳(若いのう…!)。エレクトラの指揮は初めてだと思うが、ほとんど暗譜でこのレベルに仕上げてくるのはやっぱり凄いなーと。1年半くらい前まではピンとくるものは感じられなかったが、去年のカルメンからオーケストラと共にグワーンと変化してきたように感じる。これから人生経験を重ねて音楽的にどういう道筋を辿るのか、想像するだけで胸がワクワクする。このONPの総監督としてあまり評判のよくないジョエルだが、ジョルダンを音楽監督に据えてくれたことに感謝!




PARTERRE 18 4-6

2013/11/30

La Clemenza di Tito / La Clémence de Titus / 皇帝ティートの慈悲 @ Palais Garnier


コジとはやはり違った世界のモーツァルトを素敵に表現していた指揮&オケ(軽やかな弦はもちろん、木管がハッとするほど美しく歌っていた!)を除いて、あまり面白くない舞台だった。
スタイリッシュなセノグラフィを含めた演出をソリスト達が理解しないまま舞台に立っているように見える。あるいは演出自体が難解なことにともなうレペティション不足でこうなってしまったのか…。コーラスの演技に違和感はないが、ソリスト達の動きはバラバラで意味がないように感じられるし、最初の方は歌唱もそれぞれが勝手に自分のパートを歌っているようで全く統一感がなかった。
これがそれぞれのリサイタルだとして、ひとつ1つの歌唱を取り出してみれば良いものだろうに(始終音が少しずつずれていたようなアンニオ役は除いて)作品としてのまとまりが感じられないのは残念。やあっぱり演出の問題かなぁ

セスト役のドゥストラックは熱意が伝わってきて悪くなかったのだけれど「エクスのコノリー、良かったのよねー(彼女はルックスもカッコ良かったし!)」という意識を払拭するには至らず。
意外だったのが(と言っては全く失礼だが)ティートのピルグ。明るくかつ暖かみもある声で若く素直な(まだ政治の駆け引きなど知らないような)皇帝を無理なく歌い演じていた。他の役でも聴いてみたい歌い手。

それからあの大理石に見立てた巨大な角柱が徐々に頭部になっていく様子。あの茶色い厚紙でできたような王冠、斜めにしつらえられた舞台、これらも謎だった。エクスのティートはまた観たいと思うが(ティートはクンデではなくピルグでお願いします)このプロダクションはそう思わないなぁ。

TOMAS NETOPIL  Direction musicale
WILLY DECKER  Mise en scène
JOHN MACFARLANE  Décors et costumes
HANS TOELSTEDE Lumières

SAIMIR PIRGU  Tito Vespasiano
TAMAR IVERI  Vitellia
MARIA SAVASTANO  Servilia
STÉPHANIE D'OUSTRAC  Sesto
HANNAH ESTHER MINUTILLO  Annio
BALINT SZABO  Publio

BALCON 180-182

2013/11/25

I Puritani / Les Puritains / 清教徒 =Première=


意外な事にONPでの公演は1987年以来2回目という清教徒を、ペリーのチームがどのような作品に作り上げたか楽しみな新プロダクションの初日。
金属の棒だけで作られた、まるでサインペンと定規で三次元に描かれた分割可能な城と室内の壁がシーンによって使い分けられる。それ以外の舞台セットは何一つない極シンプルなセノグラフィだが、城自体が回転することと(ピィのトロヴァトーレは「回り過ぎ!」に見えたが、この城は線だけなのでその印象はほとんどない)、ライティングとホリゾントに映る映像で印象を変える美しいオブジェである。
またエルヴィーラを閉じ込める籠に見えるように意図されているのだろう。そのちょっと古くさく見えるようなところまでも含めあらゆる面で成功していた連隊の娘よりも、個人的にはシンプルで洗練されている今回のセノグラフィの方が好みである。

その(敢えて言えば)空っぽな舞台を埋めるのがソリストのプレゼンスとコーラスの人々である。宮廷の人々や兵士たちにはまるで機械仕掛けの人形のような動きがつけられていて、特に円錐状のスカートをはいた女性達はまるで舞台上を滑るように動くのが不思議で、全体的にコミックな雰囲気を漂わせていて面白かった。
コーラスの歌唱は…可もなく不可もなくというか、つかみどころのないもので印象が薄い。アイーダであれだけドラマチックだったのに、これは準備不足かそれともレペルトワールとして苦手ということだろうか?もう少し回が進んで改善されるといいのだけれど。

さてソリスト陣、楽しみにしていたエルヴィーラ役のアグレスタ嬢は意外にもそれほど良さを感じなかった。ディクションは明瞭、声の色合いも幅も豊かでプロジェクションもそこそこ良いのに、昨夜は最高音が狙ったところをほぼ全て外れていたし、コロラチューラも硬くて滑り気味になり、それをコントロールしようとして自然さに欠けていた。
発狂する前にそれが顕著で、その後は高音のボリュームを絞って歌いやすいように調整していたようだが、不自然な感じは拭いきれない。高音は彼女の得意ではないのだろうか。中音域の上半分ではつややかな歌声を聴かせてくれるのに…(ウルマナと似ているわね、ここら辺)。
最後のカヴァレッタがなくて「あれ?これでお終い?」という感じになってしまうのが少し残念だった。

エルヴィーラのフィアンセ、アルチューロ役はコルチャク。
最初のアリアは緊張からか声は大きいもののレガートはブツ切り!ベルカントの美しさからは程遠い歌唱で、この先どんなコトになるのかと心配したけれど、以降は調子を戻してきて一安心。先日ガルニエでコジのフェランドを歌った時には鼓膜が破れるかと辟易させられたが、やはり彼の声はバスティーユサイズだ。去年TCEで聴いた時に比べると、場面に応じて少々ニュアンスがついているかなー…という印象を受けたが、やはりパワーに任せた一本調子で朗々と歌いすぎる。正義感あふれる直情型のアルチューロにピッタリはまって効果的なこともあるが、そのうち飽きてくるのだ、こういう歌唱は(全長3分のナポリ歌謡ならいいと思うけど…w)。
そしてデュエットの相性は声の印象だけで言うならTCEでのペレチャツコとのデュエットの方が私は好みだ。あるいはヨンチェヴァ。

エルヴィーラのアグレスタより期待していたのはリッカルドのクヴィエチェン。「うん、君の心情は本当に手に取るようによく解るよ」と話しかけたくなるパフォーマンス。巧いなー…。ディクション良く、滑らかなレガート、役にピッタリの深みのある声とそのニュアンス、ルックスに似合わず繊細で役に酔わずきっちりと歌い上げるところなど、充分に楽しませてもらった。
しかしながら…真面目な一刻もののリッカルド一辺倒なので、アルチューロとエンリケッタを逃がす際「此奴が王女を連れて逃げて消えればエルヴィーラはオレのものさ、フフフ」などと考えているようには見えず、役者としてはいまひとつだったな、という感があり、次回はどうなってくるかまた楽しみ。

そして昨夜のベストパフォーマンスはジョルジオ役のペルトゥージ!
まず歌唱的にほぼ非の打ち所がなく(ほぼ、というのはもしかしたら上のバルコンでは聞きづらかったかもしれないというプロジェクションの問題)、その歌唱でノーブルかつ姪を思いやる心を存分に表現している。そのたたずまいや動きもまた良く、歌唱に説得力が加わる。

このリッカルドとジョルジオのデュエットがいちばん素晴らしく、聞き応え抜群。バランスはジョルジオの方に傾いていたような気がするが、リッカルドもよく頑張っていた。ヴェルディがカルロとロドリーゴに歌わせる前に、ベッリーニがこの2人に “Bello è affrontar la morte  Gridando: libertà!” と歌わせていたとは、昨夜の新発見(笑)。


MICHELE MARIOTTI  Direction Musicale
LAURENT PELLY  Mise en scène et costumes
CHANTAL THOMAS  Décors
JEAN-JACQUES DELMOTTE  Collaboration aux costumes
JOËL ADAM  Lumières

MARIA AGRESTA  Elvira
DMITRI KORCHAK  Lord Arturo Talbot
MARIUSZ KWIECIEN  Sir Riccardo Forth
MICHELE PERTUSI  Sir Giorgio
LUCA LOMBARDO  Sir Bruno Roberton
ANDREEA SOARE  Enrichetta di Francia

WOJTEK SMILEK  Lord Gualtiero Valton