チケット入手に時間がかかったこともあって延々と楽しみにしていたハルテロス、テジエ&カウフマンの運命の力@ミュンヘン!昨日(元旦)のベルリンオペラの第九に落胆したので(ベルリンの第九は…全く響かないホール、独り熱い指揮者と始終バラーッとした印象で最後は本当にバラバラになったオケ、箱の中で歌っているように聞こえるコーラス、ヴィブラートが強すぎて乗り物酔いしそうなソプラノ、聞こえないメッゾ、スカスカ声のテノール、鬼瓦のような顔で朗々と歌うパーペ…だった)、期待がさらに増すわけです!!!
パリから来た者には「国会?マドレーヌ?」なナショナルシアター、スカラ座よりも堂々とした建物で広々としたフォワイエもあるが、何やら大味な感じ。まぁこういうコトを言うからパリの人間は嫌なヤツと思われるのだろうが、ガルニエに慣れていると他のオペラハウスはどうしても「ふうん…」になってしまう。イートインスペースは逃げ出したくなるような天井の低さで(あの部分は地下かな?)、何故あの広いフォワイエを使わないのか不思議。
プログラムを入手して、席に着く(ドアを開閉する係はいるが、席まで案内してくれる人はいない模様)。一般のロジュはなく(中央に貴賓席のようなロジュが1つとその両脇に)バルコンのみで、パーテールの中央に通路がない席の配置。真ん中辺りの席で最後にやってきたら面倒かもしれないと思ったが、ゲルマン民族は巨大なためか前列とのスペースはゆったりめ(椅子も高い!)。そしてミュンヘンのオペラの観客は席を立って待っていると前を通る時に「ダンケ」などと言いながら本当にニコニコしながらこちらを向いて通って行く。最初「アタシ顔に何かついてるのかしら?」と心配になったくらい。これはきっとパリの観客が仏頂面すぎるのよね。
日付入りのディストリビューションを見ると予定通りのキャスティング。あーハルテロス歌うワー、と安堵していたら(キャンセルがあるとしたらハルテロスだろうと思っていた)、他の色々なモノと一緒にディストリビューションと同じ紙の細長いストリップが1枚ピラ~ンと挟まっているのを発見!
私はドイツ語全然判らないが、これがカウフマンに代役のアナウンスだということはすぐに理解。
えーと、あのう…、誰なの?このテノール!!!この時のワタシ、眉間にキリキリと縦線が入っていたに違いない。ホールのライトが消えると誰かがカーテン前に出てきて喋るが「謹賀新年」しか判らないし!ONPのアナウンスよりもずっと長かったのは、代役の略歴でも話していたのかも。ちょっと!寒さをおして(いや今年の冬は暖冬だが)はるばるミュンヘンまで来たのに代役って何なの!?今日は録音もストリーミングもないからってずるい!などと心の中で悪態をついた後、ま、ONPに出演する時には堪能させてもらおうじゃないの、と思ったら案外あっさりと気持ちの折り合いがついた。
そのテジエ☆!☆!☆!今の彼はキャリアのいちばんいい時期が始まったところではないだろうか。先シーズンのエスカミリオではそういった印象は受けなかった。その彼を聴けるのは本当に幸せだ。コクのあるsuaveな声(これはsuaveとしか言いようがない)はインパクトがあるが荒いところがなく、目の前で歌われると陶然とした心持ちになる。あのニュアンスの付け方やフレージング、全て「ココ!」というところにピッタリときて、その心地よいこと!願わくば狂気じみた復讐心に燃えるカルロなどではなく、ポーザで聴きたいところだった(笑)。
そしてストリーミングを見た時も思ったけれど、彼はいつからあれだけの役者になったのだろう?!今シーズンはONPでマルチェッロとパパジェルモンにキャスティングされているのでこの調子で歌って演じてくれればいいなと思う。
そしてやっぱりハルテロスの声とプレゼンスは凄い...。背が高くて舞台映えすることもあるけれど、彼女が舞台上にいるとどうしても視線は彼女に惹き付けられる。そしてパワフルな部分、リリックな部分、メロディアスでピアニッシモな部分、全てまとめてあれだけ破綻なくきっちり歌えるんだなー、凄いなー、とただただ感心。でもやっぱり彼女はドイツ語のレペルトワールの方が好き。イタリアものはそれほどピンとこない。
あらゆるトーンの色合いと柔硬のテクスチャーを取り揃えたキャラメルのような弦、みずみずしい果物のような木管、美味しい音色のオケ(目に見えたらきっと綺麗だと思う)。金管は少し控えめですかね。指揮がメロディアスな流れを無理なく操っている感じ。コーラスはくぐもってくすんだような声がイタリアを感じさせず、ちょっと「?」。またオケから遅れ気味で軽快さがなくモッタリとした空気が漂ってしまうのもいただけない感じだった。
そして最後にトドロヴィッチ!最初に「誰?!」などと眉をひそめて申し訳なかった!舞台上のプレゼンスこそカウフマンに及ばないものの、声そのものは彼よりずっとイタリア声でビックリ。ディクションもフレージングもレガートも充分に堪能した。キャラクターの陰影のようなものは感じられなかったが(多分一生懸命で余裕がなかったのだろう)、代役でこれだけ聴かせてくれたら満足です!カーテンコールでは観客もかなりの拍手をおくっていたし、ハルテロスが「ブラヴォー☆」風にハグしていたのが印象的だった。(後から22日のカウフマンを聴いて気づいたが、トドロヴィッチに欠けていたのは弱々しいところもパワフルなところもある、あらゆる面でのヒーロー感。)
それにしてもKusej(sの上に逆さ^、何と発音するの、この名前)の演出はねぇ…。舞台写真はBSOのサイトで。
唯一セノグラフィとして美しかったのはガラガラと積まれた白い十字架。それも最初から置かれたままの木のテーブルが邪魔している。
そのずーっと置いてあるテーブルの使い方が謎。何故あの上に昇ったり降りたりしながら演技しなければならないのか皆目分からない。どうしてテーブルの上?って何回も思った。あのテーブルも何か意味があるのだろうが(解らないけど)。
父親が銃の暴発で(あの口径の銃が暴発したらあの程度の出血じゃ済まないw)倒れた際、カルロが舞台下手と父親の間を走って往復し往復の度に役者が代わって成長したように見せるのだが妙な演出。ここで成長する姿を見せないと次幕で出てくるのが彼と判らないと思ったのだろうか?そして父親の亡骸が第2幕になってもテーブルの横に横たわったままなのも謎。
第3幕のシーン、爆撃された建物を上から見た図にする必要はない。これはカーメリットの対話でピィが劇的に成功していたセノグラフィだが、ここでは何の意味もない。そしてアブグレイブの写真の再現や半裸の男に首輪をつけて犬のように引き回すなど悪趣味にも限度がある。第4幕の冒頭、リヴレではメリトーネがスープを配給するシーンはケバブの配給シーンになり、メリトーネは中身をごまかそうとまでする。宗教の対立をモチーフに妙に説教じみたというか、モラルをつきつけてくるようなところも後味が悪い。オペラにそんなことを求めてる観客なんているのだろうか?
とツイートしたら、フォロワーの方が”ドイツのとある演出家が「税金で賄える部分があるからある程度好き勝手やって実験できる」的なことを言ってました”と教えてくださった。が、実験ならば観客にチケット代を払わせず、潔く自腹を切ってやればよいのだ。チープな創造力だけでなく、200€近く支払って演出家の好き勝手な実験を見せられて戸惑う観客の事も考える想像力の方も養ってもらいたい。
私は「オペラの演出はこうでなければならない」といった信念をもってオペラを観ているわけではなく、音楽とリヴレとバランスがとれた融合感のあるもの、欲を言えば演出の意味がスッと心に入ってくるもの、が好みなだけである。観ながらこれは何?あの演技は何を意味しているの?などと疑問がわいてくるような演出はワタシには邪魔に感じられる。演出家へのインタビューなどはほとんど感心がない。演出家が自分の演出にさらに説明を加えなければならないとしたら、それは失敗作だと思っているからだ。
Musikalische Leitung Asher Fisch
Inszenierung Martin Kušej
Bühne Martin Zehetgruber
Kostüme Heidi Hackl
Licht Reinhard Traub
Produktionsdramaturgie Benedikt Stampfli, Olaf A. Schmitt.
Chöre Sören Eckhoff
Il Marchese di Calatrava / Padre Guardiano Vitalij Kowaljow
Donna Leonora Anja Harteros
Don Carlo di Vargas Ludovic Tézier
Don Alvaro Zoran Todorovich
Preziosilla Nadia Krasteva
Fra Melitone Renato Girolami
Curra Heike Grötzinger
Un alcade Christian Rieger
Mastro Trabuco Francesco Petrozzi
Un chirurgo Rafał Pawnuk
Parkett links 2 43-45