2014/01/22

Werther / ウェルテル ⑴ @Opéra Bastille

上からだとこの枠がどのように進んでくるかその仕組みが見えて面白かった。


さて、観に行こうか行くまいか迷っていたウェルテル。2nd balconからオペラグラスなしで観ればリスクもあるまいと出かけてみた。
それが功を奏したのかどうかは判らないが、意外な事にアラーニャがよくて驚いた。ワタシが大変苦手とする「オレ様アラーニャ」の雰囲気がないどころか、何かこう拠り所のない霧の中をさまようような不安さのようなものを感じた。その様子が報われない愛を心に自死を選ぶウェルテルの歌唱に自然に投影されている。

そして何よりも明瞭なディクション、自然なフラゼ、字幕が全く必要ない明晰さである。これだけ明晰なフランス語で歌われると、この点ではさすがのカウフマンもアラーニャに及ばないなぁと実感。声にもう少し翳りがあるともっとウェルテルにぴったりなのに!その点カウフマンはもう声だけでウェルテルそのもの。しかし4年前の"Pourquoi me réveiller"では涙はにじんでこない…。先日カウフマンがフランスのラジオ局のインタビューで「フランス人はフランス語に難しい(厳しい)のは知ってますから」と言っていたので今後に期待したいですね!

フランス人なんだからディクションよくて当たり前かと思えばそうではなくて、例えばデエは声に丸みがあってプロジェクションもいいのに、終始モアモアーっとした歌い方。あとやっぱり彼女は立ち居振る舞いを役によってしっかり変えないとねぇ。どれもこれもみんなロジーナみたいなgarçon manquéじゃないの。
どうも演技がダメな2人…観ていて冷める。©JulienBenhamou/ONP
演技がダメなのはアラーニャも同じ。演技が歌唱の足を引っ張っているといってもよいほど。千両役者のプレゼンスがないのは致し方ないが、演技でストーリーに現実味を与えられないのでは困る。「うわー、雰囲気ぶち壊し!見たくなかった!」と幻滅したのは第2幕でアルベールとシャルロットが去った後を追うように駆け足で登場する場面。2人の後ろ姿を目にして思わず走り出してしまう焦燥感が感じられないどころか(ここ、カウフマンは巧い!)、もうピーラピラと小走りで清々しい青春映画のパロディみたいに見える。自然な動きというものがなくて、ほぼ動かないか、動くと「え?」っという感じ。そういう意味で第4幕は普通に観ていられてよい。

そして今夜の一番は、指揮のプラソンとオーケストラ!歌がなくてもメロディーだけで意味が通じるんじゃないかと感じられるほど、ストーリーと一体化している。第三幕の冒頭など、あまりの美しさにポーッとしました。
イメージで言うと広葉樹の木陰に湧く澄んだ泉のよう。陰のない明るいアラーニャの歌声とは解け合うことなく、寄り添っている感じ。

今日は恐る恐る2nd balconから観たので、次回はパーテールで観たいとおもいます、はい。

Michel Plasson  Direction musicale
Benoît Jacquot  Mise en scène
Charles Edwards  Décors
Christian Gasc  Costumes
André Diot  Lumières 
(d’après les lumières originales de Charles Edwards)

Roberto Alagna  Werther
Jean-François Lapointe Albert
Karine Deshayes  Charlotte
Hélène Guilmette  Sophie
Jean-Philippe Lafont  Le Bailli
Luca Lombardo  Schmidt
Christian Tréguier  Johann
Joao Pedre Cabral  Brühlmann

Alix Le Saux  Kätchen


Second Balcon 2 44

2014/01/03

La Traviata / ラ・トラヴィアータ @Bayerische Staatsoper, Nationaltheater


黒い壁、そこにひとつ開いたドア、敷き詰められた色とりどりの枯葉既視感ありのセノグラフィ。これはジークフリートと同時期の作品かしらー? でも雰囲気は全然違うラ・トラヴィアータなところが面白い。黒い壁にはいくつものドアがあり、第1幕のヴィオレッタ宅の一部として開けたり閉めたりして使われるのだが、ジークフリート時のようにたった1つだけ開けて使われる事も多い。また紗のように透けて見える黒いスクリーンも使われている。両者とも積極的にアヴァン・セーンをメインに使う演出に欠かせないセットの一部である。
第2幕の田舎暮らしのシーンでブランコやシーソーが現れた時には「セルバンのルチア?!」と思った。ここでは舞台全体が庭のように使われるが下手手前には壁とドア、舞台奥に紗のスクリーンがあり、登場人物がその後ろに開いた部分から出入りするようになっている。
続くフローラ宅のソワレではジプシーも闘牛士も出てこなくて、招待客(コーラス)が歌いながらカードマジックみたいなのを披露(真ん中の人は本当のマジシャンだったと思う)。舞台左方に大きなシャンデリアが下がっている。
中央少し奥に壁があり、ドアの向こうはディナーのための部屋。
この劇場は舞台脇にスペースがないので場面転換が制約され、セノグラフィ造りに工夫が必要だろうなと思う。
第3幕ではヴィオレッタが臥したベッド(マットレス)は舞台手前の端ギリギリに置かれている。少し後ろに紗の黒いスクリーンがあり、スクリーンの左の方がドア程度の大きさに切り抜かれている。カーニヴァルの人々はこの後ろからヴィオレッタに迫るし、パパジェルモンもこちら側に置かれた椅子に座り、アンニーナと医師もこちらが定位置で、ヴィオレッタとの乖離感(ヴィオレッタの孤独)を表しているように見える。スクリーンの後ろ、舞台下手にはフローラ宅に下がっていたシャンデリアが床に落ちて転がっている。

ヴィオレッタのペレスもアルフレッドのマグリも声高らかにスルスルと歌ってそこそこ演技も良いのに、何故か心に迫ってくるものがない。それどころか音楽とそれを聴きたいワタシの間に立ちはだかっているような気配を感じたりする。不思議だった。それは彼らのせいではなく、私自身ラ・トラヴィアータにそれほど惹かれる物を感じないからかもしれない。チョーフィやドゥセのパフォーマンスを素晴らしいと思って観るがメロディーや歌唱が心にスッと沁みてくる感覚はないので、おそらくそういうことだろう。

ペレスは"Sempre libera"の最後の方で声の密度が急降下して(イメージとしては乾燥麩のような声)歌いきれるか心配になったが、すぐにアントラクトに入ったのでそこでしっかりと持ち直したらしく、その後はほぼ危なげなく歌い切った。既に歌い慣れて役どころをつかんでいるように見受けられた。

アルフレッド役は最初のキャスティングではカストロノーヴォだったが、いつの間にかマグリに変更になっていたのよね。シラグーサみたいに何の引っかかりもなく陽光に輝く声がカーンと出てくるかと思うと、コルチャクみたいに力で押すような声を出すことも。ずっと力まずに歌ってくださーい。でもディクションがよく聴きやすいアルフレッドだった(やはりイタリアものはイタリア人がいいね)。

ハンプソンのパパジェルモンについた演出が面白い。アルフレッドの婚約者(候補)を連れてくるのだが、まるで自分の若い愛人を息子にくっつけたいように見えて笑える。その気がないどころか嫌がるアルフレッドと、彼に邪険に扱われて機嫌を損ねる若い女の子の間にはさまれてオロオロと右往左往する姿も面白い。ヴィオレッタの説得も手っ取り早く済ませたい様子がありありと見えるし、役者なハンプソンによく合った演出と思った。


そしてこのクレーマーの演出ではヴィオレッタは死んだかどうか明確に示されない。舞台奥に開いたドア(多分)から強い光が射していて、その光に向かって歩いて行き、途中で幕がおりる。カーセンのホフマン物語みたいね。


Musikalische Leitung  Paolo Carignani
Inszenierung  Günter Krämer
Bühne  Andreas Reinhardt
Kostüme  Carlo Diappi
Licht  Wolfgang Göbbel
Chor  Sören Eckhoff

Violetta Valéry  Ailyn Pérez
Flora Bervoix  Tara Erraught
Annina  Rachael Wilson
Alfredo Germont  Ivan Magrì
Giorgio Germont  Thomas Hampson
Gaston  Francesco Petrozzi
Baron Douphol  Christian Rieger
Marquis d'Obigny  Tareq Nazmi
Doktor Grenvil  Christoph Stephinger
Giuseppe  Matthew Grills
Ein Diener Floras  Leonard Bernad
Ein Gärtner  Rafał Pawnuk

Parkett links 1 7-9

2014/01/02

La Forza del Destino / 運命の力 @Bayerische Staatsoper, Nationaltheater

チケット入手に時間がかかったこともあって延々と楽しみにしていたハルテロス、テジエ&カウフマンの運命の力@ミュンヘン!昨日(元旦)のベルリンオペラの第九に落胆したので(ベルリンの第九は…全く響かないホール、独り熱い指揮者と始終バラーッとした印象で最後は本当にバラバラになったオケ、箱の中で歌っているように聞こえるコーラス、ヴィブラートが強すぎて乗り物酔いしそうなソプラノ、聞こえないメッゾ、スカスカ声のテノール、鬼瓦のような顔で朗々と歌うパーペ…だった)、期待がさらに増すわけです!!!


パリから来た者には「国会?マドレーヌ?」なナショナルシアター、スカラ座よりも堂々とした建物で広々としたフォワイエもあるが、何やら大味な感じ。まぁこういうコトを言うからパリの人間は嫌なヤツと思われるのだろうが、ガルニエに慣れていると他のオペラハウスはどうしても「ふうん…」になってしまう。イートインスペースは逃げ出したくなるような天井の低さで(あの部分は地下かな?)、何故あの広いフォワイエを使わないのか不思議。


プログラムを入手して、席に着く(ドアを開閉する係はいるが、席まで案内してくれる人はいない模様)。一般のロジュはなく(中央に貴賓席のようなロジュが1つとその両脇に)バルコンのみで、パーテールの中央に通路がない席の配置。真ん中辺りの席で最後にやってきたら面倒かもしれないと思ったが、ゲルマン民族は巨大なためか前列とのスペースはゆったりめ(椅子も高い!)。そしてミュンヘンのオペラの観客は席を立って待っていると前を通る時に「ダンケ」などと言いながら本当にニコニコしながらこちらを向いて通って行く。最初「アタシ顔に何かついてるのかしら?」と心配になったくらい。これはきっとパリの観客が仏頂面すぎるのよね。

日付入りのディストリビューションを見ると予定通りのキャスティング。あーハルテロス歌うワー、と安堵していたら(キャンセルがあるとしたらハルテロスだろうと思っていた)、他の色々なモノと一緒にディストリビューションと同じ紙の細長いストリップが1枚ピラ~ンと挟まっているのを発見!
私はドイツ語全然判らないが、これがカウフマンに代役のアナウンスだということはすぐに理解。
えーと、あのう…、誰なの?このテノール!!!この時のワタシ、眉間にキリキリと縦線が入っていたに違いない。ホールのライトが消えると誰かがカーテン前に出てきて喋るが「謹賀新年」しか判らないし!ONPのアナウンスよりもずっと長かったのは、代役の略歴でも話していたのかも。ちょっと!寒さをおして(いや今年の冬は暖冬だが)はるばるミュンヘンまで来たのに代役って何なの!?今日は録音もストリーミングもないからってずるい!などと心の中で悪態をついた後、ま、ONPに出演する時には堪能させてもらおうじゃないの、と思ったら案外あっさりと気持ちの折り合いがついた。

そのテジエ☆!☆!☆!今の彼はキャリアのいちばんいい時期が始まったところではないだろうか。先シーズンのエスカミリオではそういった印象は受けなかった。その彼を聴けるのは本当に幸せだ。コクのあるsuaveな声(これはsuaveとしか言いようがない)はインパクトがあるが荒いところがなく、目の前で歌われると陶然とした心持ちになる。あのニュアンスの付け方やフレージング、全て「ココ!」というところにピッタリときて、その心地よいこと!願わくば狂気じみた復讐心に燃えるカルロなどではなく、ポーザで聴きたいところだった(笑)。
そしてストリーミングを見た時も思ったけれど、彼はいつからあれだけの役者になったのだろう?!今シーズンはONPでマルチェッロとパパジェルモンにキャスティングされているのでこの調子で歌って演じてくれればいいなと思う。

そしてやっぱりハルテロスの声とプレゼンスは凄い...。背が高くて舞台映えすることもあるけれど、彼女が舞台上にいるとどうしても視線は彼女に惹き付けられる。そしてパワフルな部分、リリックな部分、メロディアスでピアニッシモな部分、全てまとめてあれだけ破綻なくきっちり歌えるんだなー、凄いなー、とただただ感心。でもやっぱり彼女はドイツ語のレペルトワールの方が好き。イタリアものはそれほどピンとこない。

あらゆるトーンの色合いと柔硬のテクスチャーを取り揃えたキャラメルのような弦、みずみずしい果物のような木管、美味しい音色のオケ(目に見えたらきっと綺麗だと思う)。金管は少し控えめですかね。指揮がメロディアスな流れを無理なく操っている感じ。コーラスはくぐもってくすんだような声がイタリアを感じさせず、ちょっと「?」。またオケから遅れ気味で軽快さがなくモッタリとした空気が漂ってしまうのもいただけない感じだった。

そして最後にトドロヴィッチ!最初に「誰?!」などと眉をひそめて申し訳なかった!舞台上のプレゼンスこそカウフマンに及ばないものの、声そのものは彼よりずっとイタリア声でビックリ。ディクションもフレージングもレガートも充分に堪能した。キャラクターの陰影のようなものは感じられなかったが(多分一生懸命で余裕がなかったのだろう)、代役でこれだけ聴かせてくれたら満足です!カーテンコールでは観客もかなりの拍手をおくっていたし、ハルテロスが「ブラヴォー☆」風にハグしていたのが印象的だった。(後から22日のカウフマンを聴いて気づいたが、トドロヴィッチに欠けていたのは弱々しいところもパワフルなところもある、あらゆる面でのヒーロー感。)

それにしてもKusej(sの上に逆さ^、何と発音するの、この名前)の演出はねぇ…。舞台写真はBSOのサイトで。
唯一セノグラフィとして美しかったのはガラガラと積まれた白い十字架。それも最初から置かれたままの木のテーブルが邪魔している。
そのずーっと置いてあるテーブルの使い方が謎。何故あの上に昇ったり降りたりしながら演技しなければならないのか皆目分からない。どうしてテーブルの上?って何回も思った。あのテーブルも何か意味があるのだろうが(解らないけど)。

父親が銃の暴発で(あの口径の銃が暴発したらあの程度の出血じゃ済まないw)倒れた際、カルロが舞台下手と父親の間を走って往復し往復の度に役者が代わって成長したように見せるのだが妙な演出。ここで成長する姿を見せないと次幕で出てくるのが彼と判らないと思ったのだろうか?そして父親の亡骸が第2幕になってもテーブルの横に横たわったままなのも謎。

第3幕のシーン、爆撃された建物を上から見た図にする必要はない。これはカーメリットの対話でピィが劇的に成功していたセノグラフィだが、ここでは何の意味もない。そしてアブグレイブの写真の再現や半裸の男に首輪をつけて犬のように引き回すなど悪趣味にも限度がある。第4幕の冒頭、リヴレではメリトーネがスープを配給するシーンはケバブの配給シーンになり、メリトーネは中身をごまかそうとまでする。宗教の対立をモチーフに妙に説教じみたというか、モラルをつきつけてくるようなところも後味が悪い。オペラにそんなことを求めてる観客なんているのだろうか?

とツイートしたら、フォロワーの方が”ドイツのとある演出家が「税金で賄える部分があるからある程度好き勝手やって実験できる」的なことを言ってました”と教えてくださった。が、実験ならば観客にチケット代を払わせず、潔く自腹を切ってやればよいのだ。チープな創造力だけでなく、200€近く支払って演出家の好き勝手な実験を見せられて戸惑う観客の事も考える想像力の方も養ってもらいたい。

私は「オペラの演出はこうでなければならない」といった信念をもってオペラを観ているわけではなく、音楽とリヴレとバランスがとれた融合感のあるもの、欲を言えば演出の意味がスッと心に入ってくるもの、が好みなだけである。観ながらこれは何?あの演技は何を意味しているの?などと疑問がわいてくるような演出はワタシには邪魔に感じられる。演出家へのインタビューなどはほとんど感心がない。演出家が自分の演出にさらに説明を加えなければならないとしたら、それは失敗作だと思っているからだ。



Musikalische Leitung  Asher Fisch
Inszenierung  Martin Kušej
Bühne  Martin Zehetgruber
Kostüme  Heidi Hackl
Licht  Reinhard Traub
Produktionsdramaturgie  Benedikt Stampfli, Olaf A. Schmitt.
Chöre Sören  Eckhoff

Il Marchese di Calatrava / Padre Guardiano  Vitalij Kowaljow
Donna Leonora  Anja Harteros
Don Carlo di Vargas  Ludovic Tézier
Don Alvaro  Zoran Todorovich
Preziosilla  Nadia Krasteva
Fra Melitone  Renato Girolami
Curra  Heike Grötzinger
Un alcade  Christian Rieger
Mastro Trabuco  Francesco Petrozzi
Un chirurgo  Rafał Pawnuk

Parkett links 2 43-45